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  歩け あるけ

 昌平橋の「エキュート」から御茶ノ水-

         講道館-こんにゃく閻魔-一葉の碑 (西片)
 
                            2022.02




 天気予報によると、今日までは1日の最高気温が10℃を下回るけれど、明日から少しずつ上昇し、来週には15℃前後にまでなり、春の訪れを感じられるようになる、とのこと。

 確かにまだ寒い。コートにマフラー、そして駅まで自転車で行くため、手袋も身に着けて出社。

 もちろん、会社に着く前に、運動散歩。

 今日は、先日歩けなかった秋葉原の「万世橋辺り」と、こちらも以前の散歩で省略した「小石川後楽園の向こう側(白山通り)」を歩く。

 先日と同じく、JR秋葉原駅で降りるが、今回はそのまま万世橋に向かう。

 前回歩いた昌平橋の50mほど下流(隅田川寄り)に、この万世橋がある。





 この前、昌平橋から見た景色に「飲み屋が並んでいるようだ」と書いたJR中央線のガード下辺りには、以前は鉄道博物館があったはずだけれど、ネットで調べたところでは、今は「mAAch ecuteマーチ エキュート」という名で、いろいろな店舗が入っているようだ。








 万世橋を撮って、「エキュート」の中を歩きながら「ぽつぽつと」撮る。




 



  

 レストランやカフェは、神田川側(外から見ると、赤煉瓦に丸いガラス窓があいている)にテーブルを並べて、川や対岸の建て物を眺めながら、食事のひと時をすごせるようにしてある。














 時々通勤途上で、(この200mほど上流の)お茶の水橋のから神田川を見おろすと、大きな真鯉や鮮やかな朱色の緋鯉を見ることがあったから、ここの窓からの眺めも悪くないだろうと推測できる。 

 今、買いたいものが無いので、エキュートを西側に抜けて、外から見ると、これもガード下の店舗街とは思えない、おしゃれな外装になっている。





 

 目いっぱい撮りたいけれど、各店舗の許可を得たり、商品を選んだり、食事をしている人の承諾を得たりするのは面倒なので、無難な角度のものを何枚か撮り、散歩と見学を終了する。

 そう言えば、かなり昔、有楽町から新橋への、やはり国電の(古いか? JR「山手線」「京浜東北線」「新幹線」などの)ガード下で夕刻に飲んだ時は、店舗の外にもテーブルと椅子があり、もうもうと立ち込める焼き鳥の煙がテーブル席を越えて、歩道にも流れ、それがまた通行人の嗅覚と食欲を刺激し、ふらふらと、その使い込んで、年輪が浮き上がり、角がすり減ったテーブルに誘うのだった。
 今は有楽町では無理かも知れないけれど、上野と御徒町の間のガード下なら、まだその雰囲気は残っている気がする。

 都内の、もとは「生活感と味のあった」区画も、時代とともに、そして東京オリンピック開催に向けて「小綺麗な」装いに変化してしまった。
 もちろん、海外からの来日客のみなさんに分かりやすい通りや表示であるというメリットもあるけれど、個人的には一抹の寂しさも覚える。


    

 そういうことを思い出しながら、エキュートを抜けて、昌平橋を過ぎ、先日、橋から看板を見たスペイン料理のレストランなどを窓の外から覗きながら、御茶ノ水駅に向かう。この近辺は数十年に渡って通勤に使ったが、この道は初めて歩く。

  




聖橋に着き、対岸を眺めると湯島聖堂の杜が見える。





 

 お茶ノ水駅の前では市がたっている。




今日の駅前のこの催しが「市」か「マーケット」か「マルシェ」かは知らないけれど)、つまり「なんでも市」を開催中だ。

 主に食べ物。菓子も、野菜も、果物、ワイン、……などが思いっきり並んでいる。





 そこを通り過ぎると、隣の本屋「丸善」の前のスペースでは、(こちらは毎日ある)日本語の本、外国語の本、CDDVD,いや、そのほかにベルトやバッグの売り台も出ている。






 

 この先、後楽園の向こうまで歩くと距離があるので、御茶ノ水駅から水道橋まで1駅、電車に乗る。

 














 水道橋駅で降りて、(歩道はしっかり人の波)。後楽園の遊園地を左に見ながら、白山通りを北上する。



 前に通った時は、新型コロナの影響で休園中で、ジェットコースターや観覧車は止まっていたが、今日は快速で、あるいはゆったりと動いている。

 





 地下鉄丸の内線の赤い電車が、空中を走って後楽園駅ビルに吸い込まれるのを見ながら、その橋の向こう側に出ると、左手に講道館のビルがある。




 手前の入り口にはこのビルにテナントで入っているレストランの「ランチメニュー」の看板が立っている。「名物 ハンバーグセット」や「パスタランチ」、「お魚セット サワラのソテー シロワイン ランチフリードリンク付」というのもある。

 いつの間にか、春が旬の魚である鰆(サワラ)が出回るころになってきた。

 しかし、今日の私には「ひと粒立ちコシヒカリご飯の、塩シャケ1/2、カツオブシひとつかみ、南高梅赤漬ピクルス入り、焼き海苔巻き特大おにぎりランチの麦茶付」があるから、鰆やハンバーグは、次の機会に譲って、素通りする。

 


 その先の、講道館ビルの正門の前には、現代日本柔道の父ともいえる加納治五郎の像が立っている。
 作は、あの「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫。

 

 





 交番前の、地下鉄春日駅の入り口にある「神田上水跡」から運んで来た「石樋」の石を眺めながら、白山通りを更に信号ひとつ先に進み左折する。








 そのT字路の突き当りに神社が見える。

 常光山 源覚寺、通称「こんにゃくえんま」で知られているとか。私は初めて参拝する。

 ネット情報によると、昔、目の病の治癒をお願いにきたひとりの老婆に、閻魔が自分の右目をくれたので、その老婆は自分の好物のこんにゃくを絶ち、閻魔に供え続けた、という話から「こんにゃくえんま」の名前がついたそうだ。

そう言えば、閻魔さんの右目がない(丸い穴が開いていない)。

 


 境内には、他に「塩地蔵尊」「汎太平洋の鐘」「弥勒菩薩」「毘沙門天」なども祭られている。

 縁日にはとても賑わうそうだ。

 


 


 

 「こんにゃくえんま」の前の道路を北上する。
 最初の路地を左に入り、突き当たる手前の路地をもう一度左に折れると「六角坂」。

  ここには、江戸時代に六角越前守の屋敷があったのでこの名がついたとか。






先に進んで、さっき、突き当たった少し広い道路(坂道)を左に上ると、寺の門が見える。

それは「善光寺」。長野の善光寺の末寺らしい。今歩いている坂道は「善光寺坂」。

 


 




説明パネルを撮っていると、通りがかりの工事の人が

「こんにちは。この中の梅はもう咲いていますよ。時々メジロがきていますよ。ごゆっくり」

と声を掛けてくれた。

お礼を言って、境内に入ると、小梅らしい小さな花弁の白梅が咲きほこり、ほのかな梅の香りを漂わせている。

 




 善光寺参りを済ませて坂道を上ると、少し境内の広い神社がある。


 こちらは「澤蔵司稲荷 慈眼院」。400年の歴史を誇るお稲荷さんだそうな。

本堂の右の方に道があるので進むと、小さな谷に向かって小径が降りてゆく。


その先には、朱色の鳥居がずんずんと続く。その鳥居の列の下をくぐりながら進むと、さらに右の小山の方にも、また鳥居の列。




これだけ信者が多く、鳥居を寄進する人もいるということか、と感心する。

稲荷神社にお参りするといつも小銭が不足するが、その経験を踏まえて、今回は袋につめて持って来ているので、大丈夫。

あっちの狐、こっちの狐の前に1円から10円の間のコインを数枚ずつ「油揚げを買いなさい」と言いながら供えて回る。

本殿ではひとつかみ賽銭箱に供えておいたから、今夜はみんなで「油揚げの宴」でも開けるだろう。

 


 

大黒さんの像にも「宝くじが当たりますように」と言いながら供えておく。

いやいや、欲を持ってお参りしては、御利益もなくなるか。

稲荷参拝の後は、ムクノキの大木を目印に「幸田露伴宅跡」を探す。

地図を見ながら、近くの路地を歩き廻るが、なかなか見つからない。

この地図は、以前本郷を歩いた時に「文京ふるさと歴史館」で頂いた史跡地図で、大変便利使わせてもらっている。

 




しばらく歩き廻ってムクノキに戻って、視線を一周させると、ムクノキの前の家の表札に「幸田」さんの名前がある。もうひとつ別の苗字も書いてある。

そう、古ぼけた家を探していて気が付かなかったが、しっかりしたお家で、今もそのご家族の方が住んでおられるようだった。個人のお宅なので、写真の掲載は遠慮しておく。






 

善光寺坂を下りて、小石川1丁目の柳町の「仲通り商店街」を抜けて、そのまま白山通りを横断して、「樋口一葉終焉の地」を探す。

地図の上では「西片一丁目17」にあるはずだけど、この「17」が広い。しかも全面のビルの裏は崖になり、丘になっている。

先ほどの幸田露伴宅探しと同じように、白山通りの歩道を何度も往復し、裏山への道を探すが見つからない。

で、いつものように少し頭を冷やすと(もしかしたら、家の跡ではなく、例の「文京区教育委員会の説明板」ではないかと思い当たり、今度はビルの前の植え込みを注意しながら歩いていると、やっと見つけた「説明パネル」。






スーパーマーケットのイオン入り口近くの植栽の中。

 




この前の本郷通りの桜の木にしても、その前の手漕ぎポンプの奥の借家にしても、行きつけの質屋にしても、一葉さんは後世の人に「探すのが大変」という足跡を残してくれている。
 でも、幼少のころから亡くなるまで、この本郷、西片の界隈で過ごし、明治以降の女性作家の草分けとして、短い人生(享年21歳)の中で素晴らしい作品を残してくれている。

 


 

自然石を削って彫った文学碑は昭和27年に建てられた。一葉(夏子)の日記の中の明治27428日と51日の一部が、日記部分は本人の書、そのほかの題字などの碑文は平塚らいてう(雷鳥)の書で刻まれている。
 この頃、本郷菊坂町から本郷丸山福山町のうなぎ屋の離れに転居した時のことが書いてあるそうだ。(以上は、横にある文京区教育委員会の説明パネルによる)




 

 

 

今日は、あっちこっちで迷い、余計な時間がかかってしまった。

でも、お蔭で宿題になっていた一葉の終焉の地にも行けたし、予定より相当長い距離を歩いたはずだ。

さあ、今日の遅めの「おにぎりランチ」は、後楽園の礫川公園にしようか、池袋の公園にしようか。。。

 

今日の歩数   15,600








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