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新型コロナ(今はオミクロン株が中心)の新規感染者数が全国で9万人、東京で2万人のニュースが流れている中で、仕事の打ち合わせで都内に行くことになった。 しかし、錦糸町辺りで電話が入り、来週の火曜日に変更とのこと。
人混みは避けたいが、もう、行程の半分以上来ているから、そのまま秋葉原まで行き「下町散歩」をすることに。
改札を出ると、いつもの風景が広がる。
もっとも、60数年前に初めて上京して山手線で秋葉原を通過した時は、この電気屋街全体が煌々と輝いていることに感激したものだった。
まだ銀座や新宿に行ったこともなく、夜空に向かってジリジリパチパチと音を立てて輝くネオンサインの鮮やかさというかどぎつさを知らない中学生の目には、秋葉原は「日本の電化」を象徴するような街だった。 まあ、秋葉原にもネオンサインはあっただろうけれど、(少年の目には)店舗から、電気街全体から放射される照明の明るさのほうが夜空を支配していた。
(最近ここで買い物をしていないので、少しは変わっているかも知れない。) そう言えば、私が小学校の低学年の頃(昭和20年代後半か30年代の初め)、まだ40Wか60Wの裸電球に簡単な傘がついたシンプルな電灯が中心だった頃の話。 ![]() そんなことを思い出しながら、部品屋さんの狭い通路を抜けて、総武線下の横断歩道で広い通り(中央通り)を横切ろうとしたら、左手(南)向こうに赤い電車が見える。神田とお茶の水の間の万世橋(「江戸時代には「筋違橋(すじちがいばし)」だった時期もあるらしい)の上を走る中央線の電車だ。
右手(北)に向かえば上野だが、この中央通りは今までに何度なんども歩いた通りなので面白みがない。
今日は、一本西の通り、昌平橋通りを不忍の池方向に歩くことにする。
総武線のガードに沿って進むと、こちらにも電気部品店が並んでいる。
店舗のある区画が切れた大通りの交差点、左手に昌平橋(時代により、「一口橋」とか「相生橋」と呼ばれた時期があるそうだ)。
また、説明パネルによると、この辺りは、昔は神田旅籠町(はたごちょう)と呼ばれていたそうだ。
神田川に架かる昌平橋の上に上がると、すぐ先に万世橋が見え、視線をお茶の水駅方向に転じると総武線の鉄橋の先に聖橋(ひじりばし)も見える。
中央線のガード下には食堂、飲み屋、レストランが並んでいるらしく、川の側に丸い窓と看板が見える。(今度の散歩の時に様子を見よう)と思いながら進路を北に取る。
「明神下中通り」だ。
番地で言えば「外神田2-5」の辺り。
その路地を北に向かって歩き、神田明神の「男坂(おとこざか)」下の裏通りを歩いていると変わったものに出会う。風情の漂うフグ料理屋。
裏通りの路地が妻恋坂にぶつかって、昌平橋通りに出た所には、立派な店構えの「たい焼き屋」があった。
更に北に進むと、番地表示に「湯島」の文字が見えてくる。
すると、「三組坂下」の交差点を過ぎるとすぐに地下鉄千代田線の湯島駅入り口。
湯島といえば、湯島天神(湯島天満宮)を素通りするわけにはいかない。(と言う程、特に理由も無いし、何度もお参りしているけれど)
昌平橋通りを、左の路地を気にしながら進むと、Koban(交番)の先の路地奥に赤い幟が何本も風に揺れているのが目に入った。
突き当りまで行って見ると、湯島天神の「天神男坂(おとこざか)」(正式には「天神石坂」)の38段の石段の下に着く。
急な石段を登り切ると、右手に「女坂(おんなざか)」の下り緩やかな石段が下っている。 境内を歩いて驚いた。沢山の屋台が並んでいる。 この時期に来たことがなかったが、そう、今は受験シーズンの真っ只中だ。
参拝客も多く、それを目当ての屋台が境内を埋めている。 まあ、活気があって(試験合格の「勝気」もあって)、コロナも吹き飛ばして、いいことだと思う。
もっとも、拝殿の前に並んで順番待ちの列を作っている受験生やその家族にとっては、それどころではないだろう。みんな一心に合格をお願いしている。
境内のあちこちに、沢山の絵馬が鈴なりに奉納されている。
屋台では幼児を連れた父親らしい人が、家族のためだろうか「合格だるま」を買っている。
宝物殿の向かいの牛の像にもご挨拶し、境内を一周すると、前に来たとき気づかなかった碑がいくつか目についた。
火伏三社稲荷の祠、筆塚、そして、前回は気にしていなかった大鳥居。
筆塚のひとつは泉鏡花の「婦系図 湯島の白梅」のゆかりの地として、昭和17年に、久保田万太郎、里見惇、岩田藤七たちによって建てられたものだそうだ。 (例えば、最近の経験だと、上野の不忍池の中にある弁天島には眼鏡の組合が建てた「めがね之碑」があったし、裁縫の針を供養する「針塚」は各地にある)
また、説明パネルによると、ここの大鳥居は表鳥居と呼ばれ、銅製で1667年に造られたもので、都の有形文化財に指定されているそうだ。
前にも書いた奇縁氷人石は、通称「迷子石」。右面に「たつぬるかた」、左面に「おしふるかた」とあり、境内で迷子が出た時、貼り紙で知らせた「迷子知らせ石標」という伝言板の名残だそうだ。 ![]() 梅林の中の日時計は、鍛冶橋の欄干を軸に造り奉納されたものを復元したものだとか。
受験生たちの中を、おにぎり持って散歩するのは申し訳ないけれど、丁度昼時で、飲み物屋さんが出した緋毛氈を掛けたベンチや木のベンチで簡単な食事を取っている人もいるので、私も同様に日本庭園の石縁で「おにぎりランチ」にする。
目の前には枝垂れ梅の立派な枝が、小さなつぼみを無数につけて、天から流れ落ちるように垂れ下がっている。
ランチを終えて、本殿と参集殿を結ぶ渡り廊下の下をくぐって、本殿の裏に回る。
ここには2つの祠が並んでいる。
ひとつは笹塚稲荷神社、もうひとつは戸隠神社。
さらに本殿を回ると「都々逸(どどいつ)之碑」もある。 また、「努力」の碑もある。これは読売新聞社の当時の社主(正力さん)を始めとする有志による建立。
待合室の中には梅の盆栽が展示してある。白梅も紅梅も咲き始めで、そのうち完成した盆栽になる、その移り変わりを楽しむのも風流のうちなのだろう。
本殿の裏に戻ると、真裏に賽銭箱があるので、表側で列を作るのを避けて、ここで参拝を済ませる。
さっきの急な石段の夫婦坂を春日通りに下りると「切通坂(きりとおしざか)」(本郷切通し)に出る。
区の教育委員会の説明パネルによると、石川啄木が本郷の「喜之床」の2階に間借りしていた頃、夜勤で、朝日新聞社との往復に通った道だそうだ。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな 啄木
この神田明神や浅草が時代物の作品によく出てくるのは、北町奉行所が今の東京駅の近くにあったり、南町奉行所が今の有楽町駅の前にあったから当然だし、池波作品に本所(両国)界隈が出てくるのは、池波さんが浅草生まれで自分の庭のように歩いていたからだろう。 江戸時代或は明治頃の下町の地名を見ると、(私は中国山脈の麓の村の生まれだけれど)当時の江戸や明治の風景や庶民の生活を想像して、楽しくなる。
で、湯島切通しの坂を下り、中央通りに出ると、「女坂入り口」の表示があるので、通りを少し南に戻り右の路地に入ると、突き当りに石段が見える。 先程男坂の上から見下ろした、緩やかなほうの女坂だ。
2002年に原田悠里さんが「おんな坂」を唄った小さな記念碑も建ててある。
中央通りを不忍池に向かう。
この前訪れた旧岩崎邸庭園への路地の入口をかすめて進み、上野区民館の先に見える不忍池に到着。
この前来た時に見た野外音楽堂の写真を撮りたいと思ったが、鉄柵の門が冷たく閉ざされている。
仕方が無いから、鉄柵の隙間からカメラを突っ込んで1、2枚。
不忍池は雪こそないが、枯れハスが風に揺れ、冬景色。
今日の歩数 10,500歩 (何とか1万歩はクリア)
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