ホームページのトップへ
    歩け、あるけ 本郷三丁目〜春日 2022.01




 今年初めての散歩は、何度か歩いた本郷3丁目を振り出しに、2〜3時間で歩けるところを廻ることにする。

 いつものように総武線の黄色い電車で、お茶の水へ。
 新型コロナの第6波が襲ってきていて、電車に乗るのもあまり気持ちが良くない。

 電車は空いているけれど、各車両に15人程度か。JRお茶の水駅から丸の内線に乗り換え、1駅で本郷三丁目駅。

 駅から本郷通りに出る路地に10人以上の行列。ハンバーガー屋さんのテイクアウトの人の列だ。そう、時刻は丁度12時だ。

 こちらは着いたばかりで、予定の散歩をこなしていないから、おにぎりランチは1時間後を予定して、歩き始める。







 角のハンバーガー屋さんを左に折れ、交差点の角で、この前やっと写真を撮った「かねやす」を2,3枚撮っておく。1Fは相変わらずテナント募集中で、シャター降りたままだ。上の階には歯医者さんなどが入っていて、営業中。



 そのまま春日通りを後楽園の方に信号ひとつ進む。実は、この辺りは2,3度散歩したけれど、ここの歴史館で頂いた「史跡地図」に載っていて見つけていない史跡がいくつかあるので、それを見つけるのも今日の宿題(?)のひとつだ。


 その最初が、石川啄木の住んでいた「喜之床(きのとこ)旧跡」だ。前回、前々回は本郷台中学校角を何度も行き来したけれど見つけられなかったが、今日はやっと見つけた。









 信号傍にある、正に今営業している床屋さん「理容アライ」の壁に、文京区の説明板が取り付けてある。












 金田一京助を頼って上京した啄木は、明治42年(1909年)頃、ここにあった喜之床という理髪店の2階に家族で住み始め、朝日新聞の校正係で生計を立てていたそうだ。



 言語学者金田一京助の話は、私の世代では小学校か中学校の国語の教科書に載っていた。
 確かアイヌ語の研究のために北海道に行き、アイヌ語を収集するのに苦労していて、アイヌ語で「これは何?」と言う言葉を使うことを思いつき、近所の子供たちに「これは何?」を連発して、笑顔の子供達からアイヌ語を収集しながら、大人たちの世界にも入って行く話だったと思う。
 この方法は我々が外国に行った時にも使える。
 異邦人が自分たちの言葉をひとつでも使うと、とても親近感を持ってくれる。

日本に来た外国人が「ありがとう」でも「こんにちは」でも使うと嬉しくなるのと同じだ。


 ともあれ、2年越しの宿題がひとつ解決した。

 しかし、まだまだ課題は残っている。

 理容アライの前の信号で春日通りを渡り、もう一つ先の信号で右の路地に折れると、この地図をくれた「文京ふるさと歴史館」があり、その先に炭団(タドン)坂がある。






 今の人はタドンといってもわからないかも知れないが、炭を粉にしてボール状に丸めたもので、昭和の半ばまでは炬燵(こたつ)などに使われていた。









 地図上では、炭団坂を下る直前の左手に坪内逍遥旧居跡の印があるけれど、そんな古そうな建物はない。

 さあ、困った。途中にとても古そうな、風格のある家屋はあったけれど、表札が掛かっていて、門に古いふる〜い「牛乳受け」が2つ取り付けてあり、人が住んで居るようだった。

 

 炭団坂の上で、上下左右視線を振り、なにか「それらしいもの」は無いか、と目をこらす。




 と、左手の会社の植え込みの塀の外に立看がある。 近づいてみると「坪内逍遥旧居・常磐会跡」とあり、明治17年(1884年)頃、崖の上(この先は崖になり、右の急な炭団坂がその上と下をつなぐ道)に逍遥の家があり、彼が転居したあと常磐会という寄宿舎になり、正岡子規、河東碧梧桐なども寄宿したそうだ。 


 

 

 炭団坂の階段を降りる途中にも文京区の説明板があり、崖上に逍遥の家があったと書いてある。

 前に何度か通ったけれど見落としていた。

 これで、文京区の旧跡の見つけ方がわかった。

つまり、墨田区の本所あたりの旧跡は、江戸時代の高札風な説明板が立ててあったが、文京区の場合は文京区教育委員会が、四角い説明板を立てている。

 

 炭団坂を下り、菊坂通りと並行に一段下がって走る細い路地(「菊坂下道」というそうだ)を右に曲がり、宮沢賢治旧居跡を探すと、(今日も何度か行ったり来たりしたが)菊坂通り(上道)に上る小さな階段横に、目指す説明板が立っている。






 大正10年(1921年)に上京した賢治は、近くの出版社「文信社(今の大学堂メガネ店)」で筆耕や校正で生計を立てていたそうだ。仕事と平行して1日に300枚!の小説原稿を書いていたということだ。菜食主義者だったとも。

 

 

 

 

 菊坂通りに上がり、坂を下って行くと、(この少し先の、さっきの路地の奥に一葉の住んで居た貸家)右手に火伏稲荷の小さな祠があり、その先に「旧伊勢屋質店(菊坂跡見塾)」の張り紙のある古い家の屋根付き門がある。月毎の一般公開日も書いてある。







母屋の隣に、客から預かった質草を保管していたであろう白壁の蔵が初春の陽射しを浴びて建っている。(土蔵の外装は関東大震災の後塗り直したが、内部は往時のまま、とのこと。)







 この質屋は万延元年(1860年)創業で、明治23年頃、近くに住んで居た一葉が、小袖や羽織などを持って通ったそうだ。

 この文京区には、啄木、賢治、一葉など、貧しさに苦しみながらも創作活動に励んだ作家たちが住んでいたようだ。
 また、漱石、鴎外、秋声、逍遥たちも、この地に居を構え、雌伏の時代を乗り越えて、数々の物語を編んでいたようだ。

 手元の地図を見ると、他にも多くの作家や詩人たちの旧居跡が記されていて、とても1日だけで訪問することは無理なようだ。


菊坂を下り切る直前の路地を右に入ると「胸突坂」。





 文字通り「胸突き八丁」の急な坂を上ったところに旅館の「鳳明館」がある。

 路地を挟んで2棟あり、手前が本館、先が別館のようだ。今も営業していて、別館の古く立派な看板の下の引き戸に「本日は臨時休業」の張り紙がある。

 (そういえば、この近くの、昔私が下宿していた寄宿舎の斜向かいの「鳳明館 森川別館」も歴史を感じさせる旅館で、今も営業している。私のいた頃は、夜中も、修学旅行の高校生たちの元気な歓声が聞こえて来ていたものだ。)

 

 一旦「胸突坂」を下り、通りを春日駅と反対方向に少し進み、大きな木(名前は分からない)のある「新坂」を東大方向に上る。
 車1台の幅の路地で、道の矢印の表示から見ると、車両は坂の上から下の本道への一方通行のようだ。







 坂上の左手の会社の建物の前の歩道に、歌碑とあの文京区教育委員会の説明板が立っている。「蓋平館(がいへいかん)別荘跡」。





 



 碑には啄木の「東海の 小島の磯の 白砂に 我泣きぬれて 蟹とたわむる」が流麗な行書で彫り込まれている。



 傍の説明板によると、明治41年(1908年)頃、この本郷の地で小説を書いたが売り込みに失敗し、失意の中でこの歌を詠んだということだ。

 金田一京助の助けでここにあった蓋平館に住み、東京毎日新聞の連載小説「鳥影」を書き、文芸誌「スバル」の創刊の発行人ともなった。北原白秋、木下杢太郎、吉井勇たちも訪れたとのこと。

 ここの後住んだのが、今日最初に立ち寄った「喜之床(きのとこ)」の2階の部屋だったそうだ。


 このような、啄木、一葉、賢治たちの正に「赤貧」の生活をしながらの創作の跡を辿っていると、平々凡々の日を重ねた自分が恥ずかしくなる。

 

 さて、地図を見ると啄木の歌碑の先に森川町児童遊園があるらしい。

 本当なら、小さな公園でおにぎりを食べるのが私の健康散歩の常道だけど、とりあえず今日はもう少し先まで進むことにする。

  歌碑の先を右に折れてクランクを道なりに進むが「それらしい古い家」は見えない。

 クランクの先の最初の左路地の向こうに、もっと細そうな道が見える。




 それを行くとT字路で、角に「旧森川町」の説明板がある。
 これによると、昭和40年までの町名だそうだ。

 そう、今は「本郷〇〇丁目〇〇番地」だけれど、昔は森川町と呼ばれていた地域だ。
 でも、町会(町内会)の掲示板は「森川町」のままなのが嬉しい。

 役所は利便性を求めて町名変更を気軽にやるけれど、昔の名前を「味もそっけもない名称」にして、その地区の歴史に刻まれ、地元の人たちが慣れ親しんだ名前を「白紙にワープロで打ちだしただけの」ものにしてしまった。

 


 

そのT字路を右に曲がると、少し先に「それらしい家」が見える。

 行って見ると例の説明板があり「徳田秋声旧宅」。こちらは東京都教育委員会が設置したもの。

  




 いまもどなたかが住んでおられるようで、表札も掛かっている。

塀の端には史跡を示す石柱も立ててある。




秋声の旧宅の先を左に折れてすすむと、見たことのある景色が目に入ってきた。

 本郷通りから路地を入った六差路広場だ。



 昭和40年半ば頃、広場の突き当りには売り場の広い八百屋があり、レジスターなんてものはなく、天井からゴム紐で吊り下げた竹籠に売上金を入れ、お釣りもその籠から取り出して客に払う。
 手を離すと竹籠は2メートルぐらいの高さに戻り「簡易レジ籠(?)」になった。 

 路地の左側の通りには商店が並び、魚屋では秋刀魚を買い、寮の台所で塩焼きにしてほとんど頭から尻尾まで食べた。

 その隣の肉屋では、店頭で揚げ物を売っていて、肉入りのメンチカツは高いのでコロッケや110円ぐらいのハムカツが夕食のおかずになったものだ。

 そうそう、先輩が残して行った、芯のほとんどなくなった「アラジン」(当時はブランドだった)の石油ストーブの上に中華鍋を置き、肉屋で買った豚モツを放り込んで、寮の連中と飲み会もやった。
(もう、半世紀も前の話。)






 こんなことを思い出していると、(今夜のおかずはサンマにしようか、コロッケにしようか……)と、当時のメニューが目に浮かぶ。

 ふと見るとここにも「旧森川町」の説明板がある。

 


 本郷通をお茶の水方向に歩きながら、次の目標を探す。

 

 

 本郷郵便局の先には風雪に耐えてきた郁文堂のビルがある。

 その先で、「曹洞宗 喜福寿寺」の名前に釣られて路地を右奥に進むと、面白い風景に出会う。





 

 自転車置き場に仏さんの像が2体立っている。






 その奥の駐車スペースの角にも石碑がある。(私には文字が読めない)

 なぜそうなったか頭上を見て分かった。

 今、ここには「赤門アビタシオン」というマンションが建っていて、大通り側の1棟と路地奥の1棟を空中通路で結んでいて、その下が駐輪場兼境内(?)になっているのだった。

 

 奥には社務所があり、塀に囲まれた墓地もある。





 左手に「福狩稲荷」があり、赤い幟をはためかせている。



 

 本郷通りに戻り、「一葉桜木の宿」を探すが見つからない。赤門と郵便局の間を数往復したけれど、やっぱり見つからない。




 たまたま目にした「浄土宗 法真寺」の名前の石柱を眺めていると、そばに例の「文京区様式」の説明板。





 やっと見つけた「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」の説明板。





 



 

 左手には本堂があるが、中に入っても良いものやら、いけないものやら分からないので、入り口の仏さんたちに賽銭をあげて、参詣を終える。




















 仏の像の間に「一葉塚」の石柱があり、その奥に本を開いた女性像があるのは一葉だろうか。

 一葉が「腰ころもの観音様は濡れ仏にておわします」と書いた仏はこの座像か?





 帰り道にふと気づくと、手漕ぎのポンプがぽつんと置いてある。

 菊坂の下の一葉の旧貸屋の前にも、手漕ぎポンプがあった気がする。


 

 赤門の写真を撮って、今朝降りた本郷3丁目駅へ。














 途中で顕微鏡の専門店「浜野顕微鏡」を見かけたので1枚。

 


 まだ昼食を取っていないので、後楽園駅の礫川公園を目指す。

 といっても、さっき歩いた下の道からなら5分で行けるところだが、本郷3丁目まで帰ってきたので、地下鉄で1駅乗る。



 

 後楽園駅で降りて1分で、久し振りの礫川公園。

寒いけれど陽射しがあるので、遊具の広場からは元気な声が流れてくる。

黒い帽子にマスク、ダウンコートという「一見怪しげな格好」で、母親たちが心配するといけないので、子供の広場から離れたベンチで「おにぎりランチ」。

 目の前には、前回も撮った樹が2本ある。




 1本は幸田文ゆかりの「ハンカチの木」

  







 




別の1本はサトウハチローの、「ちいさい秋みつけた」のはぜの木。






 この2本は前にも撮ったけれど、どちらがどちらか分からなくなったので、今回は名前版と一緒に撮っておく。

「小さい秋」が大きい木で、「ハンカチの木」が小さい方の木。



 

 空中を走る地下鉄の線路の向こうに見える後楽園のジェットコースターは、今日は新型コロナの影響で「お休み」のようで、動いていない。

 








本日の歩数 14,700歩





ホームページのトップへ