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    浅 草 界 隈 2021.10




 新型コロナの第5波も少し落ち着き、1週間前に緊急事態宣言が解除されるレベルになったので、浅草を歩くことにする。

 1年前から歩こうと思っていいたけれど、やはりコロナの心理的な壁は大きく、人混みに入る気にはなれなかった。

 今日は時間の余裕があるので、かなり歩けそうだ。

 朝10時に家を出て、浅草橋駅で地下鉄に乗り換え、浅草に着いたのが11時半頃。

 

 
 地下鉄から地上に出ると目の前が雷門通り商店街。その東の端に看板が見えている「神谷バー」。

ここは一度飲みに来てみたかったバーだ。



別に外飲みが好きなわけではないけど、老舗のバーの1軒や2軒は行っておきたかった。

昔の雰囲気の残っているうちに来たいと思っていたけれど、店の前に来てみると、現代的なレストランになっているようだ。

 昔のまゝなのはビルの壁に残っている看板ぐらい。 だから、家族で普通に浅草見物に来て昼食を取ることはあっても、私が一人で夕刻に飲みにくることはなさそうだ。

 

取りあえず雷門から仲見世通りを歩く。

前回来たのは、3年前の正月のことだった。
  (右は2018年正月)

その日、仲見世通りは人の波で、参拝は順番待ち。1列の行列ではなく、参道の前からざっくりグループで区切り、「はい、次のグループ!」と呼ばれて、階段を上がって参拝し、3分ほどお堂の中に居て右の階段から降りる、という感じだったと思う。

まあ、あの時は正月で普段より人が多い日だから、単純に比較はできないけれど、



 今日はやはり人影はまばらで、仲見世の店も閉店もあれば休店もある。


(左と下は2021年10月)









 

ここの観音様は「聖観音宗あさくさかんのん浅草寺」というらしい。

本尊は聖観世音菩薩(観自在菩薩)、略して、一般には「観音さま」。





 

 五重塔を左手に見ながら宝蔵門をくぐり本堂へ。
























 
 「観音さま」の参拝を済ませて、本堂の横の敷地の浅草神社にも参る。


 境内にはいくつかの石碑があるので、それをめぐり、少し疲れたところでランチにする。






戦災で焼かれたけれど今も生きているという「戦災公孫樹(せんさい いちょう)」と呼ばれる大銀杏の傍に、













 大きな藤棚を屋根にした休憩所があり、休んだり飲み物を飲んでいるひともいる。
 私も端の石のベンチでおにぎりを取り出す。





一口食べた頃に年配のご夫婦が自転車で来て、パンのランチを取り始める。

パンの匂いかかけらに誘われたらしく、ハトが5,6羽飛んできて足元でエサを探す。

ここのハトはおにぎりよりパンに反応するようだ。





 ランチを終えると、やはり境内にある弁天様に参る。













ここの鐘楼は趣がある。 
 江戸時代から時を知らせる鐘を鳴らしていて、今も朝6時に鐘を衝くそうだ。

 松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という句を詠んでいる、とのこと。




また境内には添田唖蝉坊(「ノンキ節」などの作者)
と、息子の添田知道(「ストトン節」などの作者)の碑もある。

次に二尊仏、母子地蔵、久米平内堂(くめのへいないどう)と巡っているうちに手元の小銭が切れ、終りの方は賽銭なしでのお参りとなっていった。



 

東側の通りを歩くと、さすがに浅草、で「祭用品」の店が軒を並べる。





 昔、仕事で来日した外国人を連れて来た時、柔道をやっているので道着屋さんに行きたいというので、仲見世通りの1本東の路地にある道着屋に行き、帯と道着を買うのを手伝ったことがある。

ふと思い出し、今回おそらく3、40年振りぐらいで、その店を探したが、残念ながらみつからなかった。(通りを1本間違ったかも知れない)




 続いて、伝法院通りを西に進む。














 「河竹黙阿弥翁住居跡」の碑が、神輿を飾った店の前にある。
 ネットで見ると「
河竹 黙阿弥 (かわたけ もくあみ)文化13年(1816年) - 明治 26年(1893年)は、 江戸時代幕末から明治にかけて活躍した 歌舞伎 狂言作者
 とのことで、私達が比較的耳にすることが多い「鼠小僧」とか「三人吉三」などを書いた人だそうだ。





地口行燈があったり、土産物が並べられた店、それに「鼠小僧」の人形が伝法院の斜向かいの古着屋さんの屋根の上にいたりで、通りを歩くだけで、十分楽しませてくれる。







伝法院は浅草寺の本坊だが、一般公開されていないので、特別公開日以外は入ることができない。


今日は中で工事中のようだ。





少し進むと鎮護堂と水子地蔵尊。


境内に入ると正面に水子地蔵尊、左手に鎮護堂、「鎮護堂の神木」と説明のついた樹齢500年ほどの大銀杏もあり、右手には「幇間塚」(石碑)がある。

碑には久保田万太郎の「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」の句が刻まれているそうだが、風化で彫りが浅くなり読みにくい。

ここの境内から伝法院への裏門もあるけれど、閉鎖されている。






 伝法院通りと浅草グリーンロードの交差点では小さな「浅草 六区通り」の表示塔が、この先から国際通りまでがロック通りだと主張している。










左手の角には「浅草演芸ホール」があり出演者の名前の幟がはためいていて、そのビル北面は「浅草フランス座演芸場 東洋館」の入り口があり、こちらにも出演者名と顔写真パネルが道路から見えるように掲示してある。

「入場料2500円」と読める。




フランス座は、名前が売れる前の喜劇役者の多くがアルバイトをしながら芸を磨いた演芸場だ。

渥美清、萩本欽一、坂上二郎、ビートたけし、などがその後テレビや映画で全国区になり、みんなの知っている芸人になったそうだ。




 

合羽橋本通り方向へ進むと、「世界で一番小さな劇場」と自己申告している「浅草リトルシアター」があり、カッパが軒下に並ぶ店もある。


























おにぎりランチの前だったら、ちょっと入ってドジョウ鍋でも食べてみたい「合羽すし どぜう」という店もある。







  「かっぱ橋道具街」近くなると刃物や食器の専門店が見えてきて、道具街の通りに入ると台所で使う道具の店のオンパレードになる。
















 













 中には30年ほど前にお互いに協力した会社の店舗もあり、懐かしく思い出し、そして(この街には、これからも何度か来ることになりそうだ)と思いながら、田原町駅に向かった。






本日の歩数 14,400歩





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