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         本郷菊坂(1)と湯島聖堂 2020.09




本郷菊坂                 湯島聖堂      



今日は、曇り、時折陽射し、午後雷雨の可能性あり、という「何でもある」天気の予報。

新検見川で電車に乗った時は、長い座席に3人掛けほどで津田沼辺りで、ひとりおきになった。本八幡辺りで、読んでいる本に水滴が落ちて来たので外を見ると雨。どしゃぶりではないので、コロナ対策のために少し開けてある窓を閉める人はいない。雨はすぐ止み、錦糸町辺りでは座席はいっぱいになり、少し立っているひともいる。

午前中の打ち合わせが終わり、さあ、いつものおにぎりランチ散歩の時間になった。

丸の内線で本郷三丁目まで行き、先日の新聞に紹介されていた本郷界隈の文人の旧跡をたどることにした。









 3丁目の交差点を越えて、取りあえず菊坂通りの入り口だけ確認してから、少し手前の本郷薬師で家内安全をお願いする。
 お賽銭箱はお堂の窓から中のさい銭箱に投げ入れる。 暑いから軒を借りて休んでいる人もいる。

再び交差点に戻り、石川啄木の住んでいた喜之床(きのとこ)跡を探すが、見つからない。諦めて春日通りを横切り、向かい側の本妙寺坂を下る。










 この坂には途中に新聞の地図にあった喜久月という菓子屋があり目印になる。下って菊坂と交差すると右側にまるや肉店、魚よし商店があった。

最近、昔田舎で食べたドジョウを食べたくて探していたので、魚屋を覗いてみたが、昼過ぎでショウケースの中は殆ど売り切れ状態。
 店先にプラスチックの桶があったが、おそらく普通は生き魚はその中に入れているだろうけど、蓋がしてある。わざわざ店奥に声を掛けて聞くのも悪いのでやめにする。
 さっきの交差点を上って菊富士ホテル跡を目指す。長泉寺に行き着き、区画を半周してやっと、碑を見つけた。

坂口安吾たちが泊まってペンと頭とをひねり、締め切りに追われて汗をかいたはずの菊富士ホテル跡に有志達が1977年(昭和52年)に石碑を建てたのだそうだ。
 主な止宿者の名前を刻んだ碑も一緒にある。
 安吾の他に、谷崎、直木、広津、夢二、などの名前がある。やはりどちらかというと生きているうちに名前が売れて、ホテルに缶詰めになって執筆したり描いたりできた人たちで、これから探す、生前貧しかった一葉、賢治達とは違う顔ぶれだ。

ちなみに、ここから1キロほど離れた所には竹久夢二美術館があるらしい。ふと思い出したが、昔家族で伊香保に行ったとき、そこにも竹久夢二美術館があったような気がする。そのうち行ってみよう。
 ネットで調べたら、生家の有る岡山市にもあるらしい。私の田舎なのに知らなかった。もっとも今歩いている菊坂から10分ほどのところにある求道学舎に3年も暮らしていたのに、この本郷3丁目辺りのことは殆ど知らない。だから50年近く過ぎた今散策しているわけだけど……。

考えてみると、車で行って常念岳の麓のホテルに泊まり、安曇野の碌山美術館で萩原守衛の作品群、高村光太郎の十和田裸婦像(のための中型試作)などを見たのもカミさんが調べていたので偶々訪問して知ったのだった。
 その時だけの特別展だったのかも知れないけれど、棟方志功の作品も多数展示されていた。

また、結婚するまで国内旅行は殆どしたことがなく、仕事で欧州に出張した時など、現地の美術館に行くこともあったが、ルーブル美術館に行かなくても、岡山の大原美術館でルノワールの傑作は鑑賞できるし、近くの美術館で外国の作品の特別展も度々開催されていて、逆に広重、北斎、歌麿などの浮世絵や、そのほか光琳たち日本画の作品は海外にたくさん流出し、その流出先でその後の巨匠たち、例えばゴッホ、ゴーギャン、モネたちに大きな影響を与えているし、上野の西洋美術館にはロダンの作品がたくさん展示されていることを考えると、まず、身近なところから踏破すべし、ということになるか。
 凡人には遠くにあるものが良さそうに思えてしまうけれど。反省!

さて、再び菊坂の小さな交差点に戻り、宮沢賢治の旧居跡を探すが見つからない。もっと進んで樋口一葉の旧居跡を求めてとぼとぼ歩く。

目印の炭団坂が見つからなくて行ったり来たりして、やっと細い細い路地を見つけて入ると、新聞にのっていた昔の井戸ポンプ(てこぎ)があり、その路地の奥に階段がある。階段の上り口の左に入り口のドアにICHIYOU HOUSE と書いてある家があった。




 これがそうかどうかわからないけれど、そうだということにした。石段の上の方にも古い家があるが、うろついて不審者と思われてもいけないので、上るのは止めた。なにせ、コロナ対策でマスクをしているし、陽射しが強いので昔買った登山帽を被っているのだから、コロナの時期でなかったら、どうみても付近をうろつく不審者そのものだ。

石段の上の方で、私と同様に「うろついて」いた配達員風の若者が「ほんと、どこだろう?わからないなー」とつぶやきながら降りてきて、また上って行った。

一葉が金策に通ったという旧伊勢屋質店は、もう探す元気はないので、日をあらためることにする。

菊坂と並行に走る下の道に戻って本郷通り方面に歩いていると、向こうから来た中年、高年の二人のご婦人が「すみません。ちょっと教えて頂きたいのですが樋口一葉の旧居はどこですか?」と聞くから、さっき知ったばかりの路地を教えてあげた。

坪内逍遥の旧居跡と宮沢賢治の旧居跡の目印の炭団坂が分からないので、改めて春日通りから下るつもりで本妙寺坂を上っていると急に暗くなり大粒の雨が降って来た。
 折り畳み傘をさして歩いていると春日通りを走る車が雨の中に霞んで見える。確かに今日は、天気は「何でもあり」の日だ。

春日通りに出て「文京ふるさと歴史館」の表示のある路地を進むと歴史館がある。傘を傘立てに置いて、入館。

受付の女性によると、65歳以上は入場無料。


もしかしておにぎりを食べられるスペースがあるかと思ったが甘かった。平日だし、コロナもあってか来館者は私ひとり。

せっかくだからゆっくり展示を見て回る。
 昔、武蔵野台地の一部だった文京区のあちこちに、そのまた昔の縄文遺跡が散在し、貝塚なども発掘されたことを知る。
 江戸を再現したミニチュアの街並みなどもあり、時代が下ると昭和の中頃の家具などもある。あれは子供の頃に(岡山の田舎の)家に有ったな。今は物置の隅に眠っているかな、というような家具が陳列されている。



カミさんと田舎の歴史博物館などに行くと、「あれは、岡山の実家の納屋に有ると思うよ」とつぶやくことが多い。と言ってもカミさんも昭和生まれだけど、田圃や畑で使うものは知らない。せいぜい炊飯器やちゃぶ台がわかる程度。
 昭和は遠くなりにけり、ということか。
まあ、私も長火鉢などは実家では見たことはないけれど。

これでいくと、震災や水害の時にサバイバルの仕事は私の役目になるのか。こんどは火をおこす方法を習っておこう。キャンプ用に火吹き竹は今でも家にあるけれど、最初の火おこしは私もやったことがない。まあ、錐を揉むような方法は手が痛くて無理だから、せいぜい、どこかで見た紐を使っての半手動の火おこし器でも自分で作っておくかな。。。

そういえば、さっき私に道を聞いたふたりのご婦人も、炭団(たどん)坂が読めなくて「スミ・・・さか?」と言っていたな。
 私が子供の頃、寒い冬は炭団2つ入りのちいさな「猫炬燵(ねこごたつ)」ですやすや眠ったものだったが。

暑気も払って文京区の歴史も学んだので、受付の方にお礼を言って「ふるさと歴史館」を後にして、その先の炭団坂を下る。しかし、逍遥旧居跡も賢治旧居跡も見つからなかった。

再々度、春日通りに出て啄木の「嬉之床」を探すが、これも見つからない。諦めて地下鉄方向に歩くと本郷小学校がある。確か啄木の旧居跡はこの小学校の片隅の筈だけど、不審者の格好では校庭に入れない。丸の内線に乘る。

お茶の水で降りて、湯島聖堂に行く。徒歩3分。

 綱吉が儒学振興のために創建し、その後昌平坂学問所となった。

門を入ってすぐ(財)斯文会(しぶんかい)の入り口左右に休憩所が設けられている。

(財)斯文会は、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などを中心に活動を行っている組織。

小さなベンチに腰を下ろし、やっと今日の「おにぎりランチ」だ。

2時半を回っているので、夕食を考えて、2個用意したおにぎりは1個にして、麦茶を一気飲み、昨夜の夕食の、自作の手羽中の唐揚げと卵焼きを食べて、やっと一息。

ここ二日ほどの熱気で蚊が増えたらしく、追われるように歩き出す。

孔子さんに礼をして、(ここはお賽銭はいらないから、帽子を取って礼だけ)




大成殿に行って手を合わせた。

(もう、コムツカシイ勉強はいやだから、何処へ行っても「家族の健康」をお願いしている。孔子さんも驚いて「もっと学問のお願いをしろ!」というかも知れない。)

天神様と同じく絵馬がたくさん掛かっている。きっと、健康や安産?のお願いではなく学問のお願いだろう。




 












 





  



 その後、お茶の水駅に向かい、
聖橋口側から乗って帰路についた。





 今日は、これだけ歩いても13,600歩。

先週も、随分歩いたと思ったけれど1万歩そこそこ。

やっぱり、疲れは暑さのせいだろう。




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