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第5波は丁度昨夏(2021年)のオリンピックの時期で、その後10月から正月まで少し下火で安定していたが、正月明けから1日当たりの新規感染者が一気に増加し、1月30日には、東京15,895人、千葉4,258人、全国で78,121人
となっている。これを書いているうちにも、日毎に数字が増えて行くので、どこで締め切ろうかと迷ってしまう。
高齢者のワクチン接種券は1月31日に発送とのことなので、私も2月中には3回目の接種ができるのだろう。
このHPには、コロナ以外のことを書きたいけれど、どうしてもこの話題を避けて通れないのが辛い所だ。
で、他の話題は?
と言っても、なかなか楽しいことが思い出せない。
そういえば、東京でのオリンピックは昨年で2回目、冬季オリンピックも札幌、長野と2回開催されたけれど、会場に行ったことはなく、大阪万博、筑波科学博、愛知万博など大きなイベントもあったけれど、やっぱりテレビで見た。
しかし、考えて見ると、今は千葉に住んで居るから、東京など首都圏での出来事が身近に思えるけれど、もし私が実家のある岡山に居たら、わざわざ競技を生で観戦するために上京できないとも思う。
もっとも、今は海外旅行にみんなスーツケースをゴロゴロ引きながら気軽に出かけて行く時代になっているが……。
人混みに出ることは避けたいが、仕事のために週に1,2度は都内に行くこともあるので、ついでに散歩して気分転換と体調を維持する日々が続く。 散歩の話に入ると、今日は、午前中の打ち合わせで、会社の皆さんと続きをしながらのランチオンディスカッションになり、持参の「特大三色おにぎり」の出番がなかったので、「おにぎりランチ」ではないけれど、入谷の鬼子母神の辺りを歩くことにした。
山手線外回りで鶯谷(うぐいすだに)駅で降りる。 この駅では、昨年、上野公園から寛永寺を回って散歩した時に、電車に乗った。
余計なことだけど、(知人によると)山手線は環状線で継ぎ目のない線で、いいつもどこかに電車が動いている、ということで、反対向きの電車があると困るので(当たり前)、常にイチ方向にすすんでいる。
(一方向に進む、例えば新幹線などが、東京を始点として、左側交通で進んでいるのかどうか、私は知らない)
本題に戻って、鶯谷駅南口から陸橋を渡って南側に下りて行くと、階段を降りたところで、良い匂いを乗せた煙が流れてくる。
この降りた通りは「朝顔通り」、
前方の店先に数人の人影が見え、そこからの煙のようだ。「炭火焼 やきとり」の看板。
今、午後3時過ぎだけど、もう開店して、立ち飲み客?が、美味そうな煙の中でコップ酒を楽しんでいる。女性客は夕食のおかずの1品に買っているのかもしれない。いい景色だ。
ふっと、昔毎日通り過ぎて、結局一度も立ち寄らなかった、浜松町駅近くの立ち飲み屋を思い出した。あそこも確か3時からオープンして、焼き鳥やおでんの匂いと酒の匂いを街の一角に振り撒いていた。
(私も一杯)と思ったけれど、さっきの昼食で、既にビールを少々飲んでいるので、がまんして通り過ぎる。
大通り(言問通り=ことといどおり)に出る。
この「言問通り」は、この先の東大の弥生門から東に向かい、浅草寺の北を通って、隅田川に架かる「言問橋」に通じている。
前に本郷界隈を歩いた時にも思ったけれど、昔の地名や通りの名前には、その土地の香りがある。
この「言問橋」にしても、「吾妻橋」「駒形橋」「蔵前橋」にしても……。
例えば、言問橋の名称は在原業平の詠んだ、
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥
に由来するとのこと。
そういえば、スカイツリーの足元には大横川に架かる「業平橋」もある。
ついでに、墨田区のHPで、隅田川に架かる橋の紹介部分を借りてみると(説明用に少し変更しているけれど、全部借りものです):
ということで、また散歩の話に戻ると、鶯谷駅から言問通りに出て、鶯谷下信号の交差点を右に渡り、大通り沿いに進む。
途中で、路地奥に枯れた「蔦の絡まる」建物が見えたので、ちょっとお邪魔する。
それは、台東区立「坂本小学校」で、今日は同窓会が行われているようだ。 風情のある景色が路地裏に潜んでいた。 「ツタのからまるチャペルの……」とペギー葉山さんが歌った頃、私はまだ高校生だったから、その年代がいつか「思い出の」年齢になるのはイメージとしても想像できなかったけれど、あれから50年経った今はしっかり実感できる。 そういえば、あの「ドレミの歌」(「サウンド・オブ・ミュージック」の中の歌のひとつ)の歌詞は、そのペギー葉山さんが英語から訳し(というより、葉山さんの創造した美しく楽しい歌になっている)、自ら歌って、「(大人にも、子供にも愛される)みんなの歌」になった。
信号2つ分ほど進むと福禄寿の屋根付きの塀が見えてくる。
ちょっと面白い(?)のは、さっき駅に掲示されている地図を見たところでは、この辺りは「根岸」と「下谷(したや)」と「入谷(いりや)」が接しているが、この福禄寿(鬼子母神)のある区画は、下谷1丁目の区画(所在地も「台東区下谷1-12-16 真源寺」)なのに、太田南畝が狂歌で「恐れ入りや(入谷)の鬼子母神」と洒落を言っていること。 ともかく境内にお邪魔する。
1659年(万治2年)創建の法華経、日蓮宗のお寺。
この寺は「入谷の朝顔市」でも有名とのこと。今度は7月頃に来てみようか。
境内には、日蓮宗の本堂と、福禄寿の祠、鬼子母神の堂があり、
漱石来る(前書き)
(同い年で大学同窓の二人は終生の友となり、漱石は子規に俳句の添削をしてもらったこともあるそうだ。この句で子規は漱石を少し茶化している様子。) それにしても、「蕣」が「あさがお」というのは知らなかった。 散歩のお蔭でまたひとつ知識が増えた。
入谷をテーマにした浮世絵のパネルも掛けてあり、江戸時代の風俗が垣間見える。 言問通りを少し戻り、次の大黒天を目指す。
今行ってきた福禄寿の他、三面大黒天、毘沙門天、朝日弁財天、恵比寿神、布袋尊、寿老神だ。
もちろん全部は回れないから、2つ、3つお参りしようと思う。
信号一つ分戻り、根岸1丁目の信号で言問通りを渡り、そのまま少し先へ進むと荒仕上の石英岩の門柱の奥に、三面大黒天(浄土宗英信寺)がある。 山門には山号として「紫雲山」とある。
門の内側に自転車置き場があり、傍に手漕ぎの水ポンプがある。
これは「非常井戸」から水を汲み上げるためなのだろう。
更に進むと本堂がある。 帰宅後にネットで調べると入谷の「三面大黒天」の写真が載せてある。 確かに、正面の大黒天の後頭部左右に弁財天、毘沙門天の顔がある。これで名前の理由が分かった。
先日行った湯島天神の男坂下に並んでいた幟は、十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)(頭部=髪のところに11の顔を持つ)(心城院)だったか。
大黒天参りを終えて、すぐ先の路地を右に入ると、弧を描くように曲がった細い路が数十メートル。
赤い稲荷の幟が路地に向かって風に揺れている。
山門脇には、右肩に「下谷毘沙門堂」、中心に大きく「日照山
法昌寺」と彫った石が設置してある。「南無妙法蓮華経」の石碑の隣には、立正安国の碑の上に、日蓮上人像が立っている。
本堂にお参りし、ここでも家族の無病息災をお願いする。
奥に進むと毘沙門天の御堂がある。 また、同じ境内に地蔵像が2体あり、その間に「たこ八郎」さんの卒塔婆が立ててある。
大黒天の路地を出た所で、七福神を紹介する地図に載っていない寺院に出会う。立派な鳥居を持つ小野照崎神社だ。
本殿は入母屋造りで、歴史を重ねてきた荘厳さがある。
今日4軒目の寺院で(こんなにお願いばかりしていいのかな?)と思いながらも、参拝する。
学問の神様でもあるようで、「強烈な努力」の碑が建ててある。
お寺のHPによると、ご祭神は小野篁(おののたかむら)で、菅原道真も祀られているとのことで、学問の神様が二人もいる神社だ。
奥の方に築山があるので、何かと思ったら、説明パネルによると、1828年に造られた富士山をイメージした「下谷坂本の富士塚 浅間神社」。
江戸中期は富士山信仰が盛んで、各地に富士講(富士山信仰集団≒東講)が結成され、富士塚も江戸近辺だけでも50を超えたが、今も保存状態が良いものは少ない、とのこと。
また、境内には稲荷も同居している。
こちらは「織姫稲荷」。
いつものように「油揚げ」代を供えておく。
こちらの参道の外から振り返ると、小野照崎神社と織姫稲荷の鳥居が2つ並んで見える。
広い道路に出ると「根岸柳通り」。
駅に向かって歩くけれど、なかなか鶯谷下の交差点に出ない。
どうやら方向を間違えたらしい。さっきの小野照崎神社に入った鳥居とは別の本堂正面の参道から出たので、方向感覚がずれてしまったようだ。
(まあ、運動散歩だから、取りあえず歩くか……)と、「うぐいす通り」を、とぼとぼと歩いていると寺がある。
ネットでダウンロードした地図には載っていないけれど、折角だからお参りする。
入口に立派な字で「千手院」(せんじゅいん)と彫り込んだ大石が据えてある。
中にお邪魔すると、参道正面に「五智堂」の額を揚げた建物があるが、賽銭箱は見当たらない。
拝殿ではないのか、と思いながら境内をぐるぐる歩き廻っても、賽銭箱の置いてある建物はない。
本堂らしい建物の横に「社務所」の立て札があり、ここの人らしい高齢の婦人が孫らしい女の子と花に水を遣っている。
声を掛けようかとも思ったけれど、どうやらこのお寺は観光の寺ではなく、檀家の皆さんのためのお寺のようなので、失礼することにする。
しかし、駅の方向がわからない。
たまたま奥から2人の幼児を連れて出てこられた30代の女性に「すみませんが鶯谷の駅はどちらの方角でしょうか?」
と聞くと、丁寧に説明して、思い出したように「これに地図が載っていますから」と、この千手院の永代供養のパンフレットを渡してくれた。
「この寺の方ですか?」と聞くと、近くに住んで居るこの寺の娘さんで、2人の子供を保育園から連れて帰る途中で、ここに立ち寄った様子。
パンフレットによると、この寺は「真言宗豊山派 補陀洛山(ふだらくさん)千手院」というのが正式名称で、1595年に今の御徒町辺りに創建され、元禄9年(1696年)に現在の根岸の地に移された、とのこと。
千手観音菩薩をまつる伽藍は古い木造建築、五智堂には密教の五智如来が安置されている。 「下町の花のお寺」と親しまれているとのこと。
カミさんには、いつも「お墓は要らない。上野公園の桜の木の1本を墓だと思ってくれれば、子供達も東京に来た時、墓参りし易いだろう」と言っているが、賛成してくれていないので
そう言えば、帰宅後ネットで「千手院」を調べていると、このお寺の向かい側に「手児奈せんべい店」があることを知った。 手児奈と言えば、50年ほど前、私が市川に下宿している頃、すぐ近くに手児奈霊神堂があり、時どき散歩していた。 2年前に、フォトブックに書いたので少しダブルけれど……:
ここは二人の男性に愛されたうら若き女性、手児奈がどちらを選んでも、他の一人を傷つける、と井戸に身を投じた物語がもとになっている。
葛飾の 真間の井見れば 立ち平(なら)し (葛飾の真間の井を見れば、 と詠んだ歌が万葉集の中にある。 ということで、入谷の「手児奈せんべい店」を始めたご主人か奥さんが市川市の生まれか、住んでおられたことがあるかも知れない(私の勝手な想像)ので、いつか立ち寄って煎餅を一袋買って、聞いてみようと思う。
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