今日の「おにぎりランチ」の目的地は根津権現界隈。
なぜかというと、司馬遼太郎の「街道を行く」や池波正太郎の小説を読んでいると、江戸の町の情景が頻繁に出て来るけれど、私はその殆どを知らないから。
もちろん江戸時代に生きたわけではないから知らなくて当然だが、今の東京も知らない。江戸があって東京になったのだから、江戸時代の情景の一部は今もそれらしく継続している筈だ。その時代の庶民から将軍までの日常が見える筈もないけれど、その痕跡がまだ残っているところというと、その地名と神社仏閣になるのではないか。
だから信心は別にして、好奇心を少しは満たしてくれるのではないか、と思っている。すると、当時から今に至る土地の匂いと、庶民の心を救ってくれた寺院は、(政治的な施策は気にしないでおいて)数百年を(戦争で焼けたこともあるけれど)記録してくれているはずだ、と思う。
と、いうように、もっともらしい理由をつけているだけで、実は、運動不足を解消するために通勤途上でそこそこに歩いて、「今日のおにぎりランチを、ゆっくりと取れるところはどこかな?」と考えると、公園か寺か神社の境内ということになるのだ。
ともかく、今日は都内で打ち合わせがあるので、10時過ぎに電車に乗った。
新型コロナウイルスの影響で、新検見川で乗った電車は空いていて、座席は1人か2人おきに十分すわれる状態で、天気も晴れて、車両の窓は開けてあり5月の爽やかな風が流れ込んでいる。
電車は相当混んできて、ほとんどの座席が埋まる頃にお茶の水に着き、千代田線に乗り換えて根津まで行く。ここの手前の不忍池の界隈は、最近何かと歩くことの多い地域だ。
不忍通りを西に向かい、根津小学校前を過ぎて根津神社入り口の信号から左に折れ路地を歩く。
車なら一方通行の、路地を少し進むと、眼前に木立が見え、鳥居がある。

左手には乙女稲荷の鮮やかな朱色の鳥居が連なっている。

この散歩の1ヵ月ほど後、テレビで根津界隈の「観光スポット」を散策する番組があり、芸能人が数人、グループで散歩していたが、その中でこの鳥居の話をしていた。
「千本鳥居」(実際には約200基)と呼ばれているもので、乙女稲荷にお参りし、願いが叶った人が奉納するらしく、1基10万円とのこと。また、境内に「知恵の石」というベンチくらいの石があり、その石には夏目漱石や森鴎外が腰を下ろして思索にふけったのでそう呼ばれているとも。漱石も鴎外も近くに住んでいたのだから、それはあっただろう。
すぐ横の坂道、団子坂を上ったところでは、森鴎外の旧居跡地が森鴎外記念館になっている。また、すぐ隣の東大キャンパスの「心の字池」は漱石の小説「三四郎」から取って「三四郎池」として親しまれているから。
そういえば、司馬遼太郎さんの「街道を行く」の「本郷界隈」を読むと、このあたりには、男でも女でも、漱石、鴎外、正岡子規、樋口一葉など、その後名を遺した文豪たちが多く住んでいたようだ。
まあ、「知恵の石」は後世の人の作った話かも知れないが。
また、スイーツの大学芋や大学ノートも、赤門前の商店が売り出したとも言っていた。真偽のほどは知らない。
戦争中は芋が中心の生活だった話を聞くし、戦後も東大には「襖張り研究会」と称する部活があったという話も聞く。実は、学生たちが生活のために襖張りのアルバイトをしていたそうだ。

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真鶴産小松石から作られた手水鉢のある手水場
さて、根津権現の本門の外にベンチがいくつか並べてあり家族連れや老夫婦がランチ中。
おひとり様の私も少し離れたベンチで「特製おにぎりランチ」!
鳩にはエサをやれない。寺や神社にハトは付き物だけど、ハトはどんどん増えて、境内の外に飛んでゆくから、エサ遣りは禁止されている。少し寂しい。池の魚にもエサやりは禁止だった。
団子坂の上の方の文京区立森鴎外記念館の訪問は時間が無く諦めた。

千駄木で地下鉄に乗り、JR西日暮里から仕事場へ。
本日の歩数 10,500歩
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