新検見川からの10時頃の電車はごく普通に乗客が乗り、各車両がちょうど座席満杯ぐらいの状況だ。 今回は街中というか下町散歩予定なので、ネット情報の助けを借りて、調べておいた。
両国の広小路と神田のお玉が池あたりを歩いて、1万歩を超えれば良いと思う。
12時少し前にいつものJR両国駅で降りて(ここでは、この散歩を始めて何回降りただろう)両国ステーションを見ると、今日も誰かがピアノを弾いている。曲名は分からないけど、結構上手だ。
私は、家族には「オレは絶対音感の持ち主だから、演奏の良し悪しはちゃんと分かる」とうそぶいているけれど、本当は、自分で歌うと、どんな歌を歌っても「ご詠歌」になってしまう。
靖国通りを右に折れ、両国橋へ。
途中に「もゝんじや」の高札形説明板がある。 写真を撮ろうとしたら、丁度店の人が高札を拭き掃除を始めたので、このおばさまも一緒に、記念に載せておく。
で、本論に戻って、「もゝんじや」はもんじゃ焼き店」のことではなく、「ももんじ=百獣=野生の動物」の「もゝんじ屋」ということで、主に猪を料理していたそうだ。 ちなみに、江戸時代は四つ足の動物は食べないのが普通だったので、猪肉は「山くじら」として食べていたそうだ。
どこかで話したように、馬肉=さくら肉、猪肉=ボタン肉、カンガルー肉のステーキ=ジャンピング・ステーキ(これは冗談)というようなものだろう。
店頭の格子の展示スペースに、メニューサンプルの代わりに、何頭かのイノシシの毛皮(剥製?)が逆さに吊るされている)
熊の肉は食べたことがないけれど、熊の胆は苦くて、しかし薬になると言われている。
日本人は苦いものは、熊の胆でも、せんぶり(胃腸に良い薬草)でも大黄(薬樹皮)でも、苦いものは薬だと思っている。
「良薬は口に苦し」という、昔誰かが思い付いた言葉を信じているからだろう。 (私は「酒は百薬の長」の方がありがたい) 両国橋の袂の地球儀の欄干(擬宝珠=ぎぼし)も何度か撮った。
前回はここが両国広小路だと思って、辺りを探したがそれらしい表示は無かった。
その後(今回も含めて)調べてみて、両国橋の西詰めに明暦の大火の後の日除け地としての広小路が残っていることを知った。(昔は、東詰めにも広小路はあったらしく、花火もあり、西よりも賑わっていたようだ)
両国橋を渡っていると、隅田川(昔は吾妻橋より下流は「大川(おおかわ」と呼んだらしい)を観光船が白い航跡を描きながら、上ってゆく。 両国橋の中央を過ぎると、橋の西の端の両側にあの擬宝珠が見えてくる。
両国橋を渡り切ると、右前方に道路のY字交差に挟まれた三角地帯がみえる。
(あそこらしい……)と思って、横断歩道を縦横2回渡って、三角地帯に行って見ると、そこに「旧跡 両国広小路」の碑が建っている。
その西詰から横断歩道を渡って、斜めに左路地を歩く。 歩道に「薬研堀」の表示支柱が次々と現れる。
散歩が趣味のどなたかのHPに、店の前に「百本杭」が残っていると書いてあったので、その店「鳥安」という料理屋を目指す。
両国駅前のザ・ゲート・ホテルの前に「百本杭の跡」の説明高札があったけれど、本物が残っているなら一目見て置こうと思う。
(えーと、此処が東日本橋2丁目の20だから、隅田川に当たって右に折れて……)と、独り言を口に出して言いながら(少しボケが入っているから「声出し、指さし確認」が必須だ)右に折れて次の区画に鳥安がある。
明治5年創業の「すき焼き料理屋」で、塀の上には瓦屋根もついて、店の前の造りもそれらしい、鴨料理専門の料理屋だ。 店前の植え込みを探しても何もない。垣根の門の内側に何か見える。 また(あれじゃないか?)と独り言を言いながら、帽子を取って「お邪魔します」とひとり挨拶しながら覗き込むと、ありました。
「東都名所 大川端 百本杭」とある。 ちなみに「百本杭」というのは、ネットの国語辞典によると、
「岸に近い水中に数多く立て並べてある波よけの杭。また、その場所。東京都墨田区横網二丁目、隅田川に面した所にあったものが知られていた」とのこと。
簡単にいうと、海の堤防の外に埋めてある、あの波よけのテトラポットの「川版」ということらしい。散歩もいろいろ勉強になります。
「鳥安」さんには、無遠慮にも門の内側の百本杭の写真を撮らせて頂いたので、縁があればいつかカミさんと一緒にお邪魔して「鴨すき」を頂きたいと思う。 鳥安を過ぎ、1区画おいて次の角を右に行くと薬研通り。
それを1区画過ぎると、横は「すずらん通り」。
(んっ、どこかで聞いた通りの名前だ)と思ったら、1週間前に行った神田駿河台下の本屋街の裏道がやっぱり「すずらん通り」だ。
まあ、それは置いといて、少し疲れてよろよろと北上すると、薬研堀不動尊がビルに挟まれて、少々窮屈そうにアピールしている。
しかし、この不動尊は地元に住んで居る人々の自慢らい。
途中で、チビッ子たちが喜びそうな、賑やかな店を見た。
時間がないので、中を見せて頂くのは無理なので、店頭の写真だけ1枚。
さあ、ここからが問題だ。
次には、神田の「お玉が池」に行きたいけれど、全く方向がわからない!
しばらく西に向かって歩いて(実際には南西に向かっていた)、東日本橋駅の入り口を通り過ぎて、コンビニがあったのでガムをひとつ買って「岩本町はどの方向?」と聞くと、親切に歩道まで出てきて「この道を真っすぐです」と教えてくれる。
暫く歩いて馬喰横山の駅を見つけたので、(このまま歩くと大回りになりそうだ)と、手に持っている次の目的地近辺の地図をみて、軌道を少し修正する。
交差点角に定食屋の「街の台所 小町食堂」がある。
10年ほど前に、新橋近くで仕事をしていて、昼になると若い同僚たちと稲荷神社の向こう側の小町食堂に何度か通った覚えがある。
そこの店は汐留地区の再開発でビルが立ち並び、姿を消した。 また、40年ほど前には、長く務めた六本木の職場から、交差点近くの定食屋「六本木食堂」に毎日のように通ったものだ。
料理の皿が並ぶ棚(かなり時代を経ていた)から好きな物を取り、食べているテーブルに「係のおばちゃん」が来てレシートにチェックを入れて合計額を書いてくれ、帰りに会計をするシステムだったりするが、値段が手ごろで、ボリュームもある定食屋は安月給の(表現が古いかな)サラリーマンの味方ではあった。
馬喰横山から小伝馬町に向かう。
途中で、ショーウインドウの中に渦巻状の金属管の先に時計つけた、不思議なユーモラスな形のものを展示しているビルがある。
時計の秒針はきちんと時を刻んでいる。
ビルの名前を見ると「フジノビル」。
帰宅してから調べてみたところ、会社は藤野金属株式会社で、取扱い商品は金属製の各種パイプ。
小伝馬町の交差点で右折し秋葉原方向へ歩く。ちなみにこの通りは「水天宮通り」というらしい。(地下鉄で1駅南の人形町の先に水天宮がある)
電柱や家屋の地名表示板に「岩本町」が出てくる。
一丁目交差点を過ぎて、注意しながら歩き続けると「二丁目7」の角ビルに3枚の記念碑板が取り付けてある。
「江戸最初の お玉が池種痘所 のあった所」と、こちらは保存会の碑と説明板。
「お玉が池種痘所跡」、(こちらは東京都の作った標柱かな)、これは壁に貼り付けではなく、ビルから独立して歩道からビルに入れ込む形で建っている。
説明板によると、お玉が池は江戸初期には、上野の不忍池ぐらいの大きさがあったけれど、今は跡形もなくなっている。この種痘所跡には東大医学部の発祥の地として標柱が建てられたとのこと。
「岩本町二丁目6」の北側路地を左に入ると、全宅連ビルの脇に「東京都指定史蹟
お玉が池跡」の碑がある。これは東京都製。
また、その路地向こう側には小さな「お玉稲荷神社」の祠があり、この稲荷は当時のものでは無いかと思われるような歴史を感じさせる。
また、その傍に「お玉が池跡」の標柱が建っている。こちらは千代田区製。
もとの水天宮通りに戻り、秋葉原に向かうと、二丁目5の角にも交差点に向かって立つ四角い碑がある。
これは、ここにあった種痘所が東大医学部の元になっていることを示す碑で、東大医学部が建てたもの。
この「お玉が池種痘所」の創立には津山藩出身の蘭方医である箕作阮甫(みつくり げんぽ)という人が深くかかわっているという。
津山は岡山県北の中心地で、私の実家の西方20kmほどのところにある。
自分の田舎出身の人が医学の進歩に尽力したと聞くと、なんとなく嬉しくなる。
指折り数えてみると、地元出身の人は他にもいろいろあるが、実業界で華々しく、というより、地道に堅実に実績を挙げた人が多いようだ。
この交差点を左に折れ、高速道路に沿う道を2区画北に(靖国通り方向)に出て、左にぐるっと曲がると、ビル脇に小さな空間がある。
ここが北辰一刀流の千葉周作の「玄武館(千葉道場)」跡。また、儒学者の東條一堂の「瑶池塾」跡でもある。
碑には大きく「武尚文右」の文字が刻まれ、この地の来歴が記されている。 武尚文右は昔の右から左へ書く右書きなので、現代の左書きにすると「右文尚武」で、「ゆうぶんさぶ」、文武両道を兼ね備え天下を治める、という意味だそうだ。 東條一堂先生瑤池塾の址。 千葉習作玄武館の址。
とのこと。
また、話が逸れるけれど「お玉が池の千葉道場」は、昭和30年代の少年たちの憧れの的だった。
ラジオドラマの「赤胴鈴之助」という少年剣士が主役のこのドラマは少年雑誌「少年画報」の漫画をラジオの「連続放送劇」にしたもので、今の様な劇画のリアリティはなくても、小学校に通う子供たちの心を掴んでいた。 たしか、(小学生の頃の)吉永小百合さんが道場主千葉周作の娘役(さゆり)で声の出演、主人公の鈴之助を慕い応援する役で、鈴之助の心のよりどころの役だったと思う。 お金がなくて雑誌は買えなくても、ラジオは聞けるから、子供たちは夢中になって聞き、翌日あるいは翌週、学校で話題になり、上級性も下級生も「真空切り」に夢中になり、そのような学校でのコミュニケーションが、引きこもりやいじめから解放する役に立っていたのではないかとも思う。 そう、私の通った田舎の小学校では、学年ごとにワンパク大将に近いのはいたけれど、大人びた上級生がそこそこにコントロールし、勉強や運動が遅れ気味の子供達も、みんなと運動場や広場で元気に遊び、引きこもりなど縁のない生活だった。 もちろん、親や先生たちは様々な問題を抱えていただろうけれど、そして子供たちも、本当はそれぞれに悩みがあっただろうけれど、それを吹っ飛ばす活力があったようにおもう。 その後、いろいろな子供向けの漫画や「放送劇」が生まれたけれど、戦直後の、はなたれ小僧たちを救ったのは、もしかしたらこの番組だったかも知れないと思う。 第一次の団塊世代にこの話を振ると「そうだったよ!」と返ってくる。 同じ頃かその前後、女の子用には「ぺスよ尾をふれ」というラジオドラマがあり、松島トモ子さんが主役のユリの声を演じていたと思う。 また、花菱アチャコさんと浪花千栄子さんの、12人家族の「お父さんはお人好し」というラジオドラマが大人たちの息抜きなっていたと思う。
さて、話をお玉が池に戻すと、おなじ休憩スペースに、もとここにあった千桜(ちざくら)小学校の「宇宙船 千桜号」の丸く可愛い歌碑もある。
また、震災時用の(説明文によると、飲用ではなく用具洗浄などのための)井戸があり、手漕ぎのポンプが懐かしい姿を見せている。
懐かしがって見ていたが、考えてみると、震災時には停電でモーターのポンプは使えないから、手漕ぎポンプが一番適している。まさか釣瓶(つるべ)という訳にもゆかないから……。
そう、井戸水を竹の柄のツルベで汲み上げていた我が家から見れば、滑車つきのツルベや手漕ぎポンプのある家庭は羨ましかった。
手漕ぎポンプは小中学校などにしかなかったし、滑車のツルベは、主に鍛冶屋など水を沢山使う家の井戸にあるぐらいだった。
また、話が脱線したけれど、地下鉄の岩本町駅を横目に昭和通り歩いて、秋葉原駅を目指す。途中に古い石碑があったけれど、刻まれた文字が草書の達筆で読めない。
和泉橋を渡り、書泉ブックマートのビルを過ぎて、秋葉原駅の南側の空き地に着くと、古そうな橋の名版があり「佐久間橋」と読める。
そういえば、ここは神田佐久間町だし、このすぐ先は万世橋だ。
今は暗渠になっているが、この下を神田川に注ぐ川が流れ、その川に架かっていた橋の名残だろう。遺跡として残してあると思われる。
どこかベンチが空いていれば、ここでおにぎりランチにしたかったが、満杯なので、また目的地の駅の小さな公園でやっとランチにありつけた。
いつものおにぎりで、今日はシャケのかわりにメンタイコ入り。
これだけの具(メンタイコ、鰹節、赤漬の梅・紫蘇・生姜)を、ひとつの特大おにぎりに入れている。(作る時間があれば、別におかずを持参する時もある)
ここから先は、先週と同じなので省略。
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