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     泉 岳 寺  2021.01




  今日も大快晴。
  昨夜の小雨が水溜まりをつくり、氷が張っている。
  本日の散歩は泉岳寺。

  品川から泉岳寺まで京浜急行の特別快速成田行きに乗ると、まあ、座席の立派なこと!
  ふとフランスで乗ったTEE(欧州横断急行?)の特急(TGV=日本でいうと新幹線)を思い出した。

ブルーが優先席、オレンジが一般席(座席の一部が跳ね上げの折り畳み式になっている)






















ふと思い出すのは、半世紀以上前(昭和30年代末)に初めて上京するために大阪駅から乘った夜行の急行列車の「銀河」。
 座席に直角に立つ背もたれで、夜9時過ぎに出発して翌朝5時過ぎに東京駅に着いたと思う。

その間、向かい合わせボックス席で4人の乗客は、足元に新聞紙を敷き、靴を脱いで、雑誌や新聞を読み、途中の駅で、窓を開けてホームを売り歩く駅弁売りから弁当とお茶を買い、疲れるとお互いに足を投げ出して仮眠を取り「大垣か……」、「まだ浜松か……」と思いながら、8時間後に東京駅に到着。
 足元はくちゃくちゃになった新聞、座席の下には食べ終わった弁当の空箱や菓子の袋が散乱していた。

そんな旅が何年か続き、その後新幹線の「こだま」が開通してからも、運賃が高いので、また数年が過ぎて、やっと新幹線を利用するようになった。

昼間、新幹線に初めて乗ると、窓の外の景色の流れの早さに驚き、窓ガラスに付いた雨の水滴が真横に流れるのに感心し、車両の端の壁に取り付けられた速度計を見て「えっ、今時速200キロ(だったかな)!」と、また感激する。そのうち3時間半で東京駅に到着した。

当時は「ビジネス特急」とも呼ばれ、東京―大阪間の仕事の出張が「日帰り」で出来ると、産業界からも歓迎された。(でも、あの夜行列車の物憂い旅情は消えた。)



 で、泉岳寺の散歩に戻ると、2番出口から地上に出て、ゆるやかな坂を3分も歩くと泉岳寺の中門に着く。


 山門に着く前の交差点の歩道に四十七義士を偲ぶ
四十七義士之舊跡の自然石の石碑(有志の立てたものか)と地域の案内板がある。

 そこから「これじゃ、運動不足解消の散歩にならないな……」と思いながら寺に向かって歩く。










 
中門の扁額には「萬松山」とある。泉岳寺は曹洞宗の禅寺で、正式名称は「萬松山泉岳寺」というそうだ。













 門をくぐると右側に土産物屋さんや食べ物屋さんが並んでいる。






 














 山門のすぐ前には大石内蔵助良雄の銅像が天に向かって起立している。







  




 さらに進んで山門の扁額を見上げると端正な金文字で「泉岳寺」とある。

















 山門は立派な造りで、天保7年(1836年)に再建され、昭和7年に大修理されたとのこと。
 いずれの時もその時の宮大工が渾身の腕を振るったことだろう。門には派手な金箔や彩色がなく、素朴で力強く、禅寺らしい静けさがある。




 その先正面に本堂がある。

泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院。
しかし寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失して現在の高輪の地に移転してきたそうだ。
また、元の本堂は二次大戦で焼失し、昭和28年に、元と同じ鎌倉時代の建築様式で再建されたとのこと。

 正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指すとのこと。(この辺は、泉岳寺のHPからの受け売り)

 本堂の中では勤行の最中で、読経の声と太鼓の音が響いている。

賽銭をあげて義士の冥福と家内安全をお願いする。

 

右手には大きな建物。庫裏/受処で、本日は全て閉まっている様子。



 


本堂の左の前には20世紀に活躍し
た禅僧の澤木興道老師像、
西側には鐘楼があり、これも飾り気のない素朴な鐘が下がっている。







(この鐘楼の写真は、他でも使わせてもらおう!)

この鐘は大正2年の作で、前の江戸・明治に使われていた梵鐘は、今はウイーンの国立民族博物館に行っているそうだ。(鐘の前の説明書による)


そのお隣には講堂。(2階は義士木像館になっているそうだ)






 しかしながら、ここの松は素晴らしい。

私は盆栽や庭木のことはよく分からないけれど、ここの庭から見回す松は(うーん、いいいなっ!)と言いたくなる。











 そろそろ赤穂義士の墓に参る。

 江戸城「松の廊下」が、元禄14314日(1701年4月21)で、(旧暦なので月日は1ヵ月ほどずれる。今の正月と旧正月がずれているのと同じ理由。例えば今年2021年の旧正月は212日)、義士の討ち入り・切腹が元禄151214日(1703年1月30日)だから、今から300年程前の出来事だ。


 「トキはゲンロクジュウゴネン!パパン パン パンッ(=講談師が扇子で台を叩く音))ジュウニガツ ジュウヨッカ…… 、イチウチ、ニウチ、サンナガレ、大石内蔵助の打ち鳴らすヤマガ流の陣太鼓の音を合図に……パパン パンッ パンッ」(あまり詳しくは覚えていない!)と、毎年12月になるとよくラジオで流れていた赤穂義士の吉良邸討ち入りの、あの様子は、見ていたように瞼に浮かぶ(?)。

もっとも「コウダンシ(好男子ではなくて、講談師)見て来たようなウソをつき」というように、自分で見てなくても見てきたように話すのが講談師の仕事だそうな。

そういえば、最近、六代目の神田伯山さんという若手の講談師が気鋭の講談師として大変な人気で、お笑いのM1の人たちを凌いで、演芸のトップクラスに躍進しているらしい。

そうそう、(私の子供達には話したことがあるけれど、)私が小学生の頃は、夏には学校の校庭に大きな幕(スクリーン)を張り、白黒の時代劇の映画をやることがあった。

夕刻になると子供も親も校庭に集まり、(今はドライブイン・シアターだけど、当時はウオークイン・シアターだったということ)、映画館がないから小学校の校庭で映画を見た。

数年前にヒットした映画を村の住民のために無料上映することがあった。(隣町の有料の映画館ではヒット中の映画をやっていた)

もっとも、「丹下左膳」の映画では、ホントは、主役は右目が見えず、右腕も無く、左利きの侍だけど、校庭を走って幕の向こう側に行ってスクリーンを振り返って見ると、右目も右手も普通に使えていた。でも、左手は無かった気がする。

当時は鞍馬天狗などが人気で、東千代之介、市川雷蔵などが時代劇の俳優として人気があった。また、ゴジラの最初の作品(1954年)は1960年代に中学校の体育館で見た。

吉永小百合主演の「キューポラのある街」もその頃、やはり中学校の体育館で見た。体育館での上映は、生徒用だった。

まあ、昔は長閑だったということ。 



(今のゴジラはビルの屋上から新宿の街を見守っている)





  





墓地への参道には、首洗い井戸、血染の梅、血染の石など、生々しい名をつけられた、井戸や石などがある。












墓地の入り口近くには大石家の墓。

その先、墓地に入ると内匠頭の奥方の墓があり、その奥に浅野家の代々の墓、一番奥に浅野内匠頭長矩の墓がある。

またその奥の、柵に囲まれた墓地に四十七士がねむっている。

右奥に少し大きく、屋根のついた石塔がありそれは大石内蔵助良雄の墓、その2つ隣に原惣右衛門元辰が眠る。

左列の初めに内蔵助の息子 大石主税良金、その手前に堀部安兵衛がいる。

大石親子や堀部安兵衛、その養父である堀部弥兵衛の墓には、ワンカップの酒などが供えられている。

 

その墓の配置図は墓地の入口に建ててある。








 




 


 また、赤穂義士記念館の前辺りの参道には、長島茂雄さんや五代目中村勘九郎さんが奉納した石柵柱がある。






墓参りを終えて、義士記念館の前のベンチで昼食にする。

もっと写真を載せたいけれど、四十七士の墓を載せると、石塔のフォトブックになるので、この辺りでやめておく。
   両國辺りを歩いた時に書いたけれど、吉良上野介も地元では尊敬される為政者だったらしいし、浅野内匠頭もしっかりした藩主だったようだ。
 「刃傷」というひとつの出来事から、歯車が狂い、講談や歌舞伎を通じて、赤穂浪士たちの仇討ちが{武士道=義」を大切にする日本人の琴線に触れ、称賛を浴びることになったのだろう。


 今日のランチはちょっと贅沢だ。

巨大な特製おにぎりと正月の残りのカズノコに卵焼き、それに海老天、いつもの私の手抜きのウインナー、ブロッコリー。

(文句ない! もっとも自作だから誰にも文句はいえないけれど……)

 

義士記念館の前にテーブルが三つあり、その一つではこの会館の職員と思われる若い女性が食後のひと時を読書で静かに過ごしている。

他の2つのテーブルが空いているので、その一つに陣取り、初春の優しくも清冽な日差しを浴びながら、おにぎりを頬張る。食べながら周囲を見ると、先ほど通った墓地への道の入り口で立ち止まる人が数人。あとで行ってみよう。

15分か20分でランチを終え、ビジネスバッグの中でおにぎりを保温していたマフラーを、今度は自分の首に巻き、おもむろに立ち上がる。バッグはランチが無くなった分、かなりスマートになった。

先ほどの職員風な女性は、昼休みが終わったからか、あるいは、静かに読書に没頭していたのに、不意の休憩人のカズノコを噛むパリパリという音に辟易して退散したのか姿がなかった。

先程立ち止まる人がいた辺りに行ってみると水琴窟だ。丸い穴に耳を近づけて見ると、水滴の落ちる澄んだ音が地下の空間に響いているのが聞こえてくる。そばにある柄杓で水を汲んで、その穴から注いでやるといいのだろうが、前の訪問者が注いだらしい水だけで、余韻を楽しめる間隔とをおきながら、音が上がってくる。




 

その隣には、水琴窟の上に枝を張った「揺池梅」。
 義士たちの墓守をしていた尼さんが自分の居る寺から移植したものとのこと。




 さっきは、墓参りに気を取られて早歩きしたので水琴窟には気が付かなかった。



 










本堂前の庭に出て、今日の散歩は終了。

本日の歩数 13,000

 

思ったより歩いていたので、早歩きではなかったけれど、軽い運動にはなっただろう。








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