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    旧品川宿2と高輪大木戸 2020.12




 

今日の打ち合わせは、いつもの午後2時頃ではなく、午前11時ということになったので、「さあ、そのあとどこに行こうか……」と考えたが、以前行ったけれど、時間と膝の状況により、立ち寄れなかったところの「補足」に行くことにした。

つまり、再び旧品川界隈散歩。

天気予報は「晴れ」だったが、移動しているうちにだんだん曇って来た。

まあ、昔からあてにならない予測は「天気予報みたいなもんだ」と言っていた(気象庁さん、ゴメンナサイ!)が、(晴れ、曇り、雨、季節により雪やアラレもあり、その中のいくつかを言っておけば、3割ぐらいは当たるけれど)最近の予報はピンポイントで格段に正確になっている。

で、今日は晴れなら、「少し歩くか」と思い出発した。

午前中で打ち合わせが終わり、あとは自由時間。

JR品川駅から歩いても良いけど、時間が読めないのと、膝が完治していないのとで、品川駅から京浜急行で1駅、北品川まで行き下車。




この前は、駅の外から写真を撮ったけど、今回はホームから1枚。







駅前の路地(旧東海道)を南西に歩く。














 かつての本街道も、今は裏通り。
 でも、当時のままだろうと思わせる、下町の活気に満ちている。













 更に進むと、左側に小さな公園があり、石碑も立っている。




 





日本橋より2里とある。「そんなものかな?」と思う。

電車でもかなりあると思っていたが、2里というと8キロ程度だ。

そういえば、(いつものように、話が逸れるけれど)田舎の私たちの実家から、中国山脈の麓の母の実家までが2里だった。

子どもの頃、たまに母が里帰りするとき、2歳上の姉と3人で歩いた距離だ。

あの頃は、自転車も無く、歩いて実家に行った。途中に(行程の半分くらいのところに)祖父の実家の村があり、そこで小休止し、お茶を頂き、また北に向かった。

有明の月を眺めたり、電信柱の数を数えたりしながら、それこそ「山を越え、池を越え」て、私が「ぐずる」と母がおぶったりしながら、実家を目指した。

途中には陸上自衛隊の駐屯地もあり、時どき実弾演習の大砲の音も聞こえ、着弾の煙が見えたりした。

中国山脈の麓に大砲の目標地(着弾地)があり、演習基地からそこに向かってドーンドーンと大砲を撃っていた。上空では基地から飛び立った練習機が飛んでいた。おそらく今もその景色は変わっていないだろう。

その実弾演習の空隙を縫って、クズ鉄にして売り換金するための砲弾の破片を求めて着弾地に入り(もちろん立ち入り禁止区域)、着弾に遭遇したり、不発弾を拾って亡くなった人の話も聞いた。
 当時は、この演習場に限らず、富士山麓を始め各地の演習場で同じような事故が起きていたようだ。

この駐屯地を有名にしたのは1966年(昭和41年)日本ジャンボリー(ボーイスカウトのキャンプ大会)の開催だった。

私は1949年(昭和24年)の生まれで、戦後の「団塊の世代」の端のほうだから、GHQ(米軍の駐留軍の司令部)も知らないし、米兵にチョコレートをねだるような進駐軍の駐留地近くにいたわけでは無い。

また、戦中・戦後の貧しさの象徴のように言われる「すいとん」も、味覚として覚えてはいない。

物心つくころには家の畑にある野菜が中心だけど、貧しくも普通の食事を食べさせてもらっていた。

小学校の頃までは、山脈の南に広がる盆地の田んぼで仕事をする両親につれられて野良に行き、一緒に連れて行った仔ヤギを相手に遊んだり、レンゲの田んぼに舞い上がる雲雀のさえずりを聴きながら1日を過ごし、山脈を真っ赤に染める夕日を見ながら、父が追う牛に引かれる荷車に、空になった肥料袋や稲わらと一緒に乘って、家路についたものだった。

親たち大人は大変だっただろうけれど、平和な情景が瞼の内に残っている。




    思い出話は置いといて、「2里」の話に戻ると、山手線の内側の直径は十キロにならないのだろうから、品川から日本橋まで8キロというのも実感として納得できる。




ここが、西から江戸に入る宿場町(品川宿)だったそうだ。

またすこし進むと、小さな公園があり、そこが聖蹟(せいせき)公園。






























歩いて来た旧東海道からは狭い路地だが、公園に出て見ると本通りの角地だ。ここが旧品川本陣跡とのこと。

ネットでみると、

「東海道品川宿の本陣跡。明治5年に宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となりましたが、昭和13年に公園として整備され今に至ります。明治元年(1868)の明治天皇東幸の際に行在所となったため『聖蹟公園』という名がついています。」

 とのこと。ネットに詳しく載っているから、素人の私が註をつけることもないでしょう。




ただ、写真はネットのものを借りると著作権もあるので、自分で撮ったものを入れておきます。





庭の地面には広重の絵をタイルにしたものを張り込んであったりして、区の担当者の心が伝わってくる。



ここにはベンチもいくつかあり、散歩の人もちらほら訪れている。

でも「寒いッ!」。


今日の予報は「外れ」で、雲が切れてくれない。

ベンチでおにぎりを食べ、お茶を飲んだら、おにぎりを包んでいたマフラーを首巻に移動させた。やっぱり温かい。ホッ!

師走の16日だから、無理もないか。(その翌日これを書いているが、今日は快晴。ただし気温は8℃)

風が無ければ何とかなるけれど、そよ風吹いても寒く、バッグから手袋も出して着用した。

公園の一隅には幼児用の遊具もあり、天気の良い日には近所の子供達には絶好の遊び場になるのだろう。

 

聖蹟公園を後にし、鯨塚を目指す。




 この前来た時は、ほんの数分先の塚を見ないで帰ったので、今回来たのも、それが目当て。

聖蹟公園前の交差点から品川方向へ数分で、最初の信号。そこを右に入ると砲台跡があるはず。

信号の所から鯨塚のある公園らしきものが見えたが、先に砲台跡を見て、その後、クジラにする。

路地の奥に台場幼稚園・保育園の門が見え、その右に小さな灯台(レプリカ)が見える。御殿山下台場(砲台)跡だ。1853年のペリー来航に驚いて、(私は「イヤゴザンナレ、ぺりーさん」と覚えた)幕府がいくつか作った台場(砲台)の跡で、灯台は品川灯台を模したものだそうだ。

足元の、台場小学校・幼稚園の「お知らせ」と花の行列が微笑ましい。

 





路地から本通り(八つ山通り)に出るとすぐクジラの石碑がある。













近くの塀には、すこしかしいだ「鯨塚」の名前板。

くじらの碑がある公園だから、子供の遊具もクジラの乗り物。

 

ここは利田神社の境内の一部なので、神社に参拝。







前回品川を散歩した時の「宿題」を果たせたので、次の目的地を考えながら北品川駅に向かう。








また、旧街道に戻ると、八百屋も、いつもの風景だった。











  京浜急行に乗り、泉岳寺駅へ行く。


これも、前回の宿題の「高輪大木戸跡」。











江戸へ出入りする人を調べる関所の跡だ。

泉岳寺駅で降りてA4出口から地上に出るとすぐ左にある。





(実は、分からなくて、国道15号を向こう側に渡り、見つからなくて区の地図版を見てやっと分かり、引き返して「大木戸跡」にたどり着いた。)






歩道が工事中で通行止めのため、石柱が正面から撮れないが、まあ、いいか。

 1700年代に、旧東海道を挟んで石垣を築いた上に大木戸を作り、夜間は閉鎖して江戸の治安を守る役を果たしたそうだ。江戸への入り口、江戸からの出口で、よく言う「入り鉄砲に出女」(鉄砲などの武器を持ち込んで幕府に対抗しようとするのを防ぎ、地方の大名が江戸の屋敷に家族を人質として住まわせていたので、その奥方が地方の自分の城に逃れるのも防いだ)を見張っていたようだ。




 傍らのイチョウの大木が、パステルから借りたような黄色い葉を木枯らしに舞わせていた。


そう、もう10日余りで大晦日。。。


これで、今回の「宿題散歩」は終了。

今日の歩数  13,000

 




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