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    東京駅から日本橋 2021.11





今日は、仕事先の人と昼食を取ったので「おにぎりランチ」はないけれど、折角の晴天なので、打ち合わせの後の帰宅途中に散歩。



いつもは仕事の帰りに東京駅構内の店舗で、手抜きの夕食用の駅弁や、総菜を求めるぐらいで、駅の外に出ることは殆どないけれど、最近、東京駅の補修工事が終わり、工事の幕や足場などが撤去され、綺麗になった駅舎全景が見られるようになったとの報道を見たので、久し振りに駅の外にでてみることにした。


北口から広場に出ると、観光客(今日は私も観光客)や通勤客でかなり賑わっている。



以前見た時には、改修工事のために幕で覆われていた部分も、さっぱりした表情で顔を見せている。

しかし、さあ、どう撮ろうか?

駅舎(今は駅ビルというのかな)が長すぎて、私のカメラでは全景は撮れない。

仕方が無いから、東半分、西半分、最後に左右が切れた正面、というように撮る。


その後は、北町奉行所跡を訪ねる。



駅の改札の内に入らずに、北口から八重洲口へ抜ける「自由通路」を通り、東側に出る。

東京駅は仕事でも私用でも利用することは多いけれど、旧跡を探したことがないので、昨日ネットで調べておいた道を辿るが、なかなか見つからず、同じところを行ったり来たり。







やっと、グラン東京ノースタワーエントランス脇の植え込みの中に、都の「旧跡 北町奉行所跡」の碑を見つけた。








見つけてみると、それほど分かりにくいわけではないけれど、どのような碑かのイメージ無しに探すと、なかなか大変だ。






ネットの情報によると、北町奉行所跡の碑はもう一つある、とのこと。




先ほど通った鉄鋼ビルと丸の内トラストタワーの間の細い通路のモニュメントの、そのまた右奥にある。











こちらはトラストシティの建てた説明碑だ。








路地に入って、奉行所跡の碑に行く途中に変わった石組がある。

説明パネルによると、江戸城外堀の石垣を再現したものだそうだ。




植栽を囲む長い石垣の一部が、大きな石を組んだ「江戸時代の再現版」の石垣。

表面に、当時石を割る時の「矢穴(やあな)」跡が残っている。










 矢穴というのは、大きな石を割る時、切りたい線に沿って何本かの矢(=クサビ)を打ち込んだ跡のこと。

石には割れやすい目(石目)があり、その目と、作りたい石の大きさを考慮して矢と呼ばれるクサビを打ち込んで石を「切った」そうだ。

ネットによると、この工法は戦国時代の終わりごろから全国各地の城の石垣などの石切りに使われていたらしい。



 私の小学生の頃は、学校の行き帰りの路に、村には鍛冶屋や石屋が1軒あった。

石屋では石英岩をざっくり割った石が作業場に並んでいて、その石を石塔の形に仕上げ、前面に「○○家の墓」と文字を丹念にタガネで彫り込むおじさんの手元を飽きもせずながめたものだった。

今のようにドリルや旋盤など便利な道具の無い時代なので、鏨(たがね)で文字を彫り、砥石で鏡のように磨きあげる作業は、翌日も、その翌日も続いていて「いつになったら出来上がるのかな?」と思う程、気の長い作業だった。

また、村には大工さんも居たが、その家の子供が小学校の作文で「うちのお父さんは、よその家は直すけど、うちの風呂場は壊れたままです」と読み上げて、参観日の母親たちの微笑を誘っていたそうだ。

そういえば、うちの祖父も大工の棟梁だったそうで、よく「棟上げから帰りにお墓の前を通ると、火の玉が燃えていたもんだ」と話してくれた。

その大工道具の金槌や釘をおもちゃにして遊んだので、私も、もの作りは好きな方だ。

家庭を持ってからも「物なおし」は続き、家電製品の壊れたものを片っ端から修理して、カミさんから「それは買い替えようと思っていたのに……。直さないで!」と言われたりした。

でも、今でもアナログのメカの故障は直せるけど、マイコンを使ったものは、チップが壊れると直しようがない時代になった。
 老メカニシャン、いや老メチャニシャンは寂しく去るのみ、か。


話を散歩に戻すと……、時代劇の「遠山の金さん」で有名な北町奉行所跡の碑は2つ見つけたから、次は何処に行こう?

とりあえず呉服橋まで歩き、右折して日本橋を目指す。

ここには何度か来たけれど、ゆっくり見るのは今回が初めてなので、今回初めて気づいたものも沢山ある。




 

頭上を首都高が走り、見上げる空は切り取られて昔の面影はないけれど、足元の地上には昔日の名残や、「ここには〇〇があった」という碑が次々と見つかる。










 最初は「日本橋」の碑と、橋の欄干に建つ彫像(青銅製かな?)。

 









インフォーメイションセンターの小さな建物があり、ウインドウの内側に「流れ」と名付けられた丸い碑がある。これはもちろん現代の作。






 


屋根付きの説明碑には、日本橋の由来や、国の重要文化財である旨、橋の構造などが、2枚の青銅板に刻まれている。

 










橋を三越側に渡ると、日本国道路原標(の複製)がある。原版は車道の真ん中にあるので、歩道には複製を置いてあるとのこと。





 嘗ては「お江戸日本橋 七つ(朝4時ごろ)発ち……」と歌われた、五街道の起点で、旅の出発点。

今も、各地に「日本橋より〇〇km」と表示があり、距離の計測始点となっている。




品川(宿)を歩いた時にも「日本橋より2里(4km)」とあった。

この元標の傍らに、主な地点の距離表もある。

ちなみに、私の住む千葉市は日本橋から37粁(km)。

 




この小さな広場は「元標の広場」と名付けられ、ほかにもいくつかの表示(碑)が設置されている。










向かい側には日本橋に魚河岸があったことを記念する「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑もある。



この魚河岸が大正12年(1923年)の関東大震災のあと築地に移り、築地の中央市場の魚介の部門になったとのこと。(説明板にある)

その傍らには「乙姫広場」の表示があり、観音様がにこやかな表情で建っている。

この観音様の像は乙姫の像だという人(ネット上での話)もいる。



 


 まだ白木屋の井戸を見つけていないけれど、今日はこれくらいで散歩を終了。













橋のたもとの地下鉄入り口から改札に向かう。

しかし、これから先が遠かった。

そのまま地下鉄に乗ればすぐだったが、「JR新日本橋駅」の矢印を見つけたので「これなら乗り換えなしで津田沼まで行ける」と思い、新日本橋駅に向かうが、なかなか改札に着かない。












kmぐらい歩いたと思われる頃(ホントの距離は知らない)、やっと改札。








しかし、このお蔭で今日の散歩の歩数が1万歩を越え、また、日本橋の地下街の様子も少し分かった。

 






本日の歩数 11,300歩







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