ホームページのトップへ
         湯島天満宮1 2020.05




 

新型コロナウイルスの流行のため、4月7日に緊急事態宣言が発布され、5月25日に宣言が解除された。

久し振りに「都内出勤」。電車は新検見川駅で乗車した時は、長椅子の座席に乗客2人程度。つまり、各車両に10人弱。

今日の「おにぎりランチ」は湯島天満宮(湯島天神)。

お茶の水から丸の内線で本郷3丁目。降りて交差点で湯島方向に向かう。

この交差点辺りが昔は「江戸の内」と「外」の境界だったらしい。川柳に「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」というのがあり、


 文京区教育委員会の説明プレートによると「かねやす」は、享保年間に兼康祐悦という口中医師(歯医者)が開いた店で、乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したそうだ。

一方、享保15年の大火後、時の町奉行の大岡越前守が防火対策として、江戸城から本郷3丁目までは土蔵造り、屋根は瓦葺を」奨励し、その先の中仙道は茅葺の屋根の家が続き、江戸の景観が農村的に変化したらしい。

そして、ここ本郷の境目の「かねやす」の大きな土蔵が目立っていたのでこんな川柳が歌われたそうだ。

春日通りを北に向かって颯爽と(カミさんに言わせると「よたよた」と)歩いて行くと、元富士警察署・消防署を通り過ぎる。

その先左手に、家光の乳母だった春日の局の眠る臨済宗天沢(澤)山「麟祥院」がある。


 門前の春日の局の銅像が目印だ。

境内には、もちろん春日局の墓があり、石塔には4方向に穴が空いている。亡くなってからも江戸を見守れるように、とのことだそうだ。



また、同じ境内に「東洋大学発祥の地」の石碑もある。

1887年に創立者井上円了が哲学館(東洋大学の前身)を麟祥院の書院に設置した、とのこと。


本郷3丁目からここまで、せいぜい1kmぐらいか。

 少し歩くと、湯島天神の裏門につく。

以前、(5年ほど前の12月頃だったか)来た時は、合格祈願の絵馬が鈴なりになっていたが、今はそれほどではない。進学や入試の季節が過ぎたからだろう。(左の写真は12月ごろのもの)

私はもう合格を祈るような年はとっくに過ぎたので、お賽銭を上げて、家族の健康をお願いした。

 菅原道真の亡骸を乗せた車を引いていて座り込み、その地を道真の墓所としたといわれる臥牛の像の鼻を撫でて、写真を1枚撮る。

 こんな私にも「青春時代」はあったのであって、今から50年から60前には進学や資格試験の「合格祈願」をしたものだったが、天神様が近くになかったので、ご先祖様の墓前で手を合わせてお願いした。その願いは、聞き届けてもらえたものもあったし、だめなものもあった。

 しかしながら、振り返ってみると、自分はなんと恩知らずで義理を欠いた人間か、と呆れてしまう。

今まで何十年も生きて来て、親兄弟はもとより先生や先輩、同級生、後輩など、お世話になった人は大勢いるけれど、お世話になった度合いが大きい人にほど、何もお返しをしていないし報告もしていない。

今からお礼とお詫びの行脚をするのも遅すぎるので、これからもまた頭の隅で「すみません。ごめんなさい。」という言葉を繰り返しながら散歩することになる。

 で、湯島天神に話をもどすと、

 境内の植え込みに「奇縁氷人石」が立っている。側面に「たずぬるかた」とある。

その時は来歴を知らなかったが、後で、ネットなどで調べてみると、落し物や迷子の時は、この石にお願いすると探しているものが見つかるといわれたそうだ。

その植え込みの周りの石囲いに腰を下ろして、おにぎりランチ。
 今日は、「おにぎり」ではなく「おいなりランチ」だ。
正統派の「いなり寿司」ではなく、油揚げを数枚甘辛く煮ておいて、半分に切り、今日のランチの「おいなり」を2個作り、残りの揚げは翌日の「コロナのための巣ごもり生活」の昼食の饂飩か蕎麦に放りこんで、「キツネうどん(orソバ)」に使う。手抜きのひとつだ。

座った時は、先客は一人だったが、ランチを終える頃には、こっちの石囲い、あっちのベンチにスペースを開けながら、おひとり様(私)、老夫婦、若いカップルなど10人以上が、初夏の陽射しの下で、自前のランチを楽しんでいた。

今日の歩数13,000歩








ホームページのトップへ