今日は寒い。 「三寒四温」の「寒」の日だ。風も強いから体感温度は実際より低いだろう。
JR飯田橋で降りた。いつもと景色が違う!
電車の比較的前の方に乘っていたので、市ヶ谷の側で降りたら、目の前に上りの階段がある。(えっ!)と思ってもう一度確認しても、階段がある。 (確か、西口改札から入ると、そのままホームへの長い緩やかな下りの通路があって、どこにも段差や階段は無かったはずだけど……)と思ったが、西口まで行って確認する時間もないので、東口に向かうと、その先のホームの左右には事故防止の金網が張ってあり、その先に東口改札への下り階段があった。 きっと、しばらく西口を利用しない間にオリンピック向けに、駅構内の改装が進んでいたのだろう。 そういえば御茶ノ水駅も、ずいぶん改装が進み、階段や改札の位置が変わってきていた。(お茶の水駅は、今も改装の継続中で、神田川の中に工事の足場の架設があり、クレーンなども動いている)
「1a」の出口から地上に出ると目の前の神田川に江戸川橋が架かっている。
そう、「神田川」のはずなのに、なぜ「江戸川橋」なのか? ここは、Wikipediaに頼ることにする: 江戸川橋の「江戸川」は、利根川水系の江戸川(フーテンの寅さんが川堤を歩き、東京都と千葉県の間をのどかに結ぶ「矢切の渡し」のある、あの川=私の勝手な註)のことではなく、駅付近を流れる神田川中流部分(おおむね大滝橋付近から船河原橋までの約2.1キロメートルの区間)のかつての名称である。 と書いてあり、納得。
いつものように「初めとろとろ……」で散歩を開始する。
じっと見ていると、通りがかりの散歩途中の人が、 「河津桜(カワヅザクラ)ですよ」と教えてくれた。
この公園には川辺にも、右手の山側(ホントは建物側)にもベンチがたくさんあり、ランチの場所の心配はなさそうだ。 とんがり帽子の休憩所の裏に階段があるので、足の強化のために登ってみる。
途中には「展望台」風なスポットもあり、その先を少し上って、下りに入ると、つづら折れの鉄骨階段になり、それを下ると丸いものがある。
梯子もあるけれど通勤着で子供連れでもないのに梯子はかっこうがつかないから、脇のつづら折れ階段を公園まで下りる。
そう、ここは大きな有名な公園ではなく、近くのみなさんが、いつでも来て、ひと時をすごせる公園。
神田川沿いの細長く小さな1キロほどの公園だが、こころが休まる庶民の公園だ。
とは言っても、ちゃんといくつか遺跡などもある。
児童公園?のベンチでおにぎりランチを食べ、頭上に枝を伸ばしている紅梅白梅を何枚か撮る。
芭蕉がここで堰の番人?を頼まれて住んでいたところだとか。 再度ネットのWikipediaにお願いすると、 「松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた」 とある。 敷地の中には入れなかった。(後でネットで見ると「なお普段は正門は閉ざされているので、出入りは横の通用口からとなっている。」とある。失敗! まあ、通勤ルートから近いから、また改めて来てみよう。
話はがらっと変わるけれど(いつものこと)、都内出張?の時には、電車の中で本を読んでいる。昔はビジネス関連の本だったけれど、今は気楽に時代物の小説を読むことが多い。
今日の車中読書は「銭形平次捕物控」で作者は野村胡堂。
そう、神田明神で出版社の碑を見つけたり、境内の石段の上から明神下を見下ろして「そうか、200年ほど前の江戸時代には、この下の町に平次がいたのか」と想像したり(もちろん、架空の登場人物だが)したが、小説は読んだことがなかった。映画かテレビドラマで1、2回見たことはある。 「お前さんは親切そうだから、……」 という一節があった。
時代物の小説の中にフランス語のルビが振ってあったので、ちょっと興味が湧いて、ネットの胡堂の略歴を「こまった時のWikipedia」で調べてみた。 野村胡堂は1882年生まれ、1963年没の、岩手県の出身の作家で、音楽評論家(筆名は「あらえびす」)でもある。盛岡中学校の同窓に金田一京助、石川啄木がいた(後輩の啄木に俳句・短歌の手ほどきをした)。 東大の法科に入学し、学費が続かず退学し、報知新聞に入社し政治部に所属し、社会部長、調査部長、学芸部長、編集局相談役などを歴任したそうだ。 優秀な記者から編集のトップまで行ったえらい人だった。(もっと詳しくはネットを参照のこと) おそらく大学の第二外国語でフランス語を勉強していたので、「おまえ、あんた」の呼び方に「チュトワイエ」のルビをつけたのだろう。
「間髪容れぬ投げ銭が、平次の手から流星の如く飛びました。永楽銭や文銭では埒があかぬと見たか、取って置きの小判が一枚、二枚、夜の水の上に閃きます」 という節もあり、小説の中で平次が「通常」投げたのは永楽銭や一文銭だったらしいことがわかる。
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