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         清澄公園(解放公園) 2021.07





 太陽が出ると30度を超える日が続いている。

 今日は昼休みタイムが短いので、前に行った「清澄庭園」の向こう側の「清澄公園」に行くことにする。そもそも暑くて、2時間も散歩を出来る気候ではないので、いつ切り上げても良い場所にした。

 いつものようにJR錦糸町駅で降りて地下鉄半蔵門線に乘り2つ目の清澄白河駅で下車。

 前に歩いた清澄庭園の前を通ると門は開いている。緊急事態宣言下でもオープンしているようだ。

 





  道路を挟んで向かい側の「清澄公園」に入る。ここは開放公園で、いつでも開いていて、入場料もいらない。地元のみなさんが気軽に歩ける公園だ。



 前に書いたように、明治11年に岩崎弥太郎が3万坪を取得し「深川親睦園」を回遊式林泉公園として開園。関東大震災後、被害の少なかった東半分が当時の東京市に寄付され1932年に「清澄庭園」となった。その後1977年に西側の敷地を開放公園として追加開園したそうだ。

 



 その説明パネルもある。




 

つまり、前回歩いたのが東半分の「庭園」(約12千坪)で、今回歩くのが西半分の「開放公園」(約1万坪)ということになる。

 

 

 



 北の正門側から入ると、すぐ右に時計塔がそびえ、私が着いたのが1155分だと教えてくれる。











 その塔の足元には、大きな藤棚がある。もちろん花の時期は過ぎ、今は蔓が絡まり緑の葉が真夏の光を一杯に受け、来年へ向けて成長し活力を蓄えている。








 その手前には、公園の左奥にある池から時計塔に向かって伸びてくる水路があるが、残念ながら水は無い!

 灼熱の太陽の下の公園だから、少しでも水が流れ、メダカでもいてくれると楽しいのだけれど……。まあ、いろいろ事情があるのでしょう。

 


 水は無いけれど、外縁を囲む木立の多い公園なので、木陰を拾って歩き、取りあえず一周することにする。



 小路を歩いていると児童スペースもあり、幼子を遊ばせる母子連れの姿も見える。

 

 

 どんどん進むと池があり、その向こうに四阿(あづまや)も見える。




 もちろん池に水はないけれど、水がある時にも飛び石で池の中央の島に行けるようになっている。



 今は、周りの岸が観客席で中央の島が「舞台」のようにも見える。



 木立の幹は太く、百年以上の樹もありそうだ。

 公園の入り口は正門の他に何か所もあり、どこからでも入園でき、それぞれの入園スペースに「出会いの広場」あるから、「今日のお弁当は、あの出会いの広場の先のベンチにしよう」と打ち合わせて来る人も多いのだろう。



 




 外周の木立からはセミの声が降り注いでいる。

 









とにかく「健康散歩」だから、歩く。(と、言っても、一周2キロ程だと思うけど)


 園内の小径には方々にベンチが散らしてあるから、休憩や食事の場所に困ることはない。

半周した辺りで右手の空間が開け、運動広場と芝生広場が見えてくる。

運動広場は土が見える砂地で、けが防止とともに水はけを良くしてある。真夏の昼間なので競技をしている人影はない。
 
 芝生広場は刈り込まない芝生で、歩き回ると自然の上を歩いている感触が嬉しい。

 日常生活では、どうしてもアスワルトやコンクリートの上を歩くことが多いので、散歩の時は無意識のうちに(意識して?)自然の凹凸を探していることに気づく。





 芝生広場を横切って、さっき見えた四阿に行く。
 
 

手前には巨大な広葉樹(サクラではなさそう)がある。



 四阿には運動で汚れた手や足を洗え、水補給ができる水道はあるけれど、ベンチやテーブルは無い。

 でも、すぐそばに真四角の大きめのベンチがふたつあるので、そのひとつに席を占め、おにぎりランチにする。

 

 目の下の、水の無い池の島は正に「舞台」で、飛び石を踏んで、木立の中の楽屋から演者が登場して来そうに見える。

 おにぎりを食べていると、白い捕虫網を手にした母子連れが、その池を横切って、向こうのセミの鳴き声に向かって行く。

特別な設備がある公園ではないけれど、近くに住む人や周辺の会社を仕事場にしている人々にとっては身近なオアシスだろう。





 清澄公園を後にして、駅に向かう途中で、村田晴海の墓のある寺に立ち寄る。


 前回、「清澄庭園」を訪れたときに見つけたもので、ゆっくり見ることが出来なかった歴史遺跡だ。



少し復習しておくと、村田春海という江戸時代の、賀茂真淵の門人の国学者で、江戸派の歌人として有名な人がいた。

その人が「本誓寺」に眠っているとのこと。

「本誓寺」の前の歩道に、この寺の変遷が簡単に紹介されている。大火などに見舞われ、何度も移転を繰り返し、最終的に現在の地に落ち着いたようだ。

小さな門を入ってみると、築山や地蔵の祠がある。(で、墓地は?)と思って路地に戻ると、その路地奥に(大通りの清澄橋通りからすれば、路地に入ったばかりのところ)墓地が見える。 

 何もなしでお参りするのは申し訳ないので、入り口で「南無阿弥陀仏」と3回唱えて数段の石段を上る。村田春海さんの墓は何処かと探しても、ぎっしり並んだ墓石の中からそれを見つけるのは難しい。

 ふと、有名な人で、昔の人、だからきっと墓地の奥の方にあるだろうと見当をつけて、一番奥に行くと、あった。「平春海先生の墓」とある。



 ネット情報によると、本姓は「平」で、著書に歌文集『琴後集』、漢詩集『錦織詩草』など、とある。私は知らなかったが、江戸時代の有名な学者・歌人だったようで、その弟子たちが建立した墓なので「平春海先生」とあるのだろう。




 清澄白河駅にもぐり(地下鉄なので)歩いていると「深川江戸資料館」の大きな看板がある。





 そう、この近くにその資料館があるはずだ。
 今日は時間切れなので、また1時間半以上余裕がある時に来てみようか。

 いずれにしても、今日は緊急事態宣言下だから休館だろうと思う。

 


 いつもはJR新検見川駅に着くと、何も見ないでとんとんと階段を降りて駐輪場に向かうが、今日、北口でふと見ると出口にいくつかのハスの鉢が並んでいるのに気が付いた。 

 和風な名前や中国風、ベトナムという名前もある。身近なハスにもいくつも種類があることを知った。

 そういえば、近くの東大総合グラウンドの傍には、太古(2000年前の縄文時代)のハス「大賀(おおが)ハス」が発見された記念地があり、夏の早朝に「観蓮会」として一般開放される。
(もっとも、昨年と今年は新型コロナの影響で中止が続いているが。

 

 


 今日の歩数は、ちょうど10,000

 



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