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         清澄庭園 2021.06




 梅雨入り宣言もあり、不安定な空模様。

 予報は午前中雨又は曇り、午後は晴れ。だが出発予定の10時過ぎの空は曇りなので駅まで自転車で出勤。

 もちろん、おにぎりも持って、散歩の準備もOK.

 JR錦糸町で降りると、駅前の広場が濡れている。電車に乗っている間に都内は相当降ったようだ。

  
 広場には献血車が2台停まっていて、採血用の車両に、ぽつぽつと献血の人が入って行く。

 私も久し振りに献血しようかとも思ったが、「高齢者」の仲間入りしているので止めた。




 これが正解だったことは、偶々、翌日のテレビで知った。

 献血できるのは、16才以上70才未満で、(他にも条件はあるけれど)健康な人、だとのこと。

 もう何十年も前(昭和43年ごろ)、私の住んで居たアパートの人が手術で血液が足りなくて、その人の奥さんが献血を依頼してきたので、他の住人と3人で病院へ行き献血したことがある。

(その時に輸血に使うのではなく、献血手帳を手術・輸血をする病院に提出すると、ある意味で貯金ならぬ「貯血」をしてあるので「この量まで輸血できる」ということになるらしい)

 その後2回ほど献血したけれど、いつの間にか止めてしまった。

当時は1回200mlが普通で、牛乳ビン1本程度で、帰り際にジュースを貰って飲んだ。

人間は(私は)不思議な生き物で「もう、今後はダメですよ」と言われると、「惜しかったな、もう1回でも2回でも献血して置けば良かった」と思う。
 これはその時に輸血が必要な見知らぬ人のためだけでなく、いつか家族や自分自身が手術で血液が必要になった時に、その献血歴を輸血に回せるから。

 

 そんなことを思い出しながら、先週と同じ地下鉄半蔵門線に乘る。

 
 前回は1つ目の住吉駅だったが、今日は2つ目の駅、清澄白河駅で降りる。

  都立の(門の有る)庭園は64日頃から開園するようになっている。

  地上に出て、清州橋通りと清澄通りの交差点に立つと、森のある区画が見えるので、その角に行くが入り口が分からない。

 通りがかりの人に聞くと、路地の終わりの先の角に公園の入り口があるとのこと。

 入り口に着くと、道の向こう側にも公園がある。立っている地図版で確かめると、今入ろうとしているのが「清澄庭園」、道の向こう側が「清澄公園」。

 もちろん兄弟公園だが、「庭園」の方は有料で、日本の伝統的な回遊式林泉庭園で、「公園」の方は開放公園とあるように、無料の、地元住民のための、いつでもオープンの公園だ。

 「庭園」は有料で(と言っても、高いわけではない)一般150円、65歳以上は70円、ということで、入場券を購入し、パンフレットを1枚頂き、手の消毒を済ませて入園。11時半過ぎだ。

 庭園のパンフレットやネット情報をざっくりと引用すると:

 泉水・築山・枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」で、この造園手法は、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれている。
 この地の一部は紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられていて、明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの地を買い取り、明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみた。
 隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成した。

  また、昭和52年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した、
 とのこと。

 園内には順路が矢印で示してあり、それに従って時計と逆回りの小径を歩く。

  竹の筧から水を注いでいる石の手水鉢から爽やかな水の音が聞こえてくる。

摂津御影石を彫った「なつめ水鉢」というそうだ。

 

 ちなみに、この庭園には、日本各地の銘石が、そのままであったり、加工された形であったりで、あちらこちらに配置されている。

 岩崎家が自社の汽船で、全国の石の産地からあつめたものだそうだ。



 木立の間を抜けると小さな島がある。石橋を渡ると、島の小山の中央に燈籠が立っている。








 



 説明板によると「山燈籠」で石は讃岐御影石。

確かに雲母の黒い斑点や透明な石英が分かる。石塔によく使われるあの御影石だ。

燈籠の素朴な姿と、粗削りな仕上げが木立によく似合う。




飛び石を渡り、隣の陸地からの出島に渡る。飛び石は雨に濡れて光っている。

子供の頃なら平気でぴょんぴょん渡っただろうけれど、70過ぎて、運動不足解消のために散歩している身では、慎重になる。

 ゆっくりと、濡れ石が滑らないかどうか、気をつけながら渡る。

 幸い、この1年は出かける時は、仕事の時も、散歩の可能性を考えて、常にゴム底のウォーキングシューズにしているので、革靴より安全だ。




  渡った先の小山の上では作業員の人が補修工事中。電動鋸の音もすれば、静かに丁寧に松の枝先の葉を間引いている人もいる。

後で作業の休憩時間に見ると、本来はキノコの形の茅葺屋根で「傘亭」と呼ばれるあずまやがあるはずの所に、今は、半球の上にテーブルのような休憩椅子を置いただけの休憩所があった。いつかまた元の姿に戻ることを期待しながら、「磯渡り」と呼ばれる、水際の飛び石の道を進む。ここの石は上面が平らなので、落ちる心配はない。



















 池の向こうに「涼亭(りょうてい)」と名付けられた高足の休憩・集会の建物が、名前の通り涼しげな姿を水面に浮かべているように、見えている。

 
 もともとはこの「涼亭」は賓客を迎えるために建てられたもので、(中で見れば「数寄屋造り」のはず)、パンフレットに書いてあったように、岩崎家の迎賓館だったらしい。

 だから、土の上に建てるのではなく、庭園の造りの一部として、敢えて足高の湖上亭のように立ててあるのだろう。

 もっとも、私の目には、そのような伝統的な造りや、湖上建築の工夫は「その気になれば、朝から晩まで釣り三昧で過ごせる屋形」ということになる。

今は、有料で集会などに貸し出されているそうだ。


 
 この庭園は、何処から見ても絵になる。だから、いつもシャッターを切っている気がする。 

 再び湖畔に上がり、小路を歩く。

この庭園の歴史を簡単に紹介する「清澄園記」の碑があり、前にベンチが二つ。

この庭にはベンチはたくさんあり、今は入場者も少ないので、ランチの為の席を心配する必要は無さそうだ。いざとなれば、亀と競争して、水辺の岩の上に座ることもできる。


 清澄記の碑の先には「自由広場」への門がある。(「広場への門」か、「広場から庭園への門」か、わからないけれど。)

 門から広場にはいると、言葉通りに「広場」で、































 

 左手前に休憩のための大きな「あずまや」、広場の左から正面の端にかけて、花菖蒲園がL字型に囲んでいる。

 








そのまた端に芭蕉の「古池や かはづ飛び込む 水の音」の句碑が建っている。碑の来歴も傍の説明板にある。

 

 この庭園近くには「採茶庵(さいとあん)(跡)」があり、芭蕉は1689年(元禄2年)「奥の細道」の旅への一歩を、そこから踏み出したそうだ。

菖蒲園の端には古そうな石積みがあるけれど、本当の目的は何かわからない。

広場から庭園への入り口(出口)から庭園へ行き、涼亭が左手に見ながら池の畔を歩く。

 今まで気づかなかったけれど、あちらこちらに日本の代表的な石が配置されている。

これは飛びぬけて形が良い石を選んで集めたのか、有名な石の生産地から、一種の「ブランド石」の見本として、庭園向きの形のものを運んで来て、山水庭園の石のあるべきところに配置したのかわからない。きっと後者だろうと思う。

 


 伊予青石












 武州三波青石






 




 もう少し先の大正記念館の横には、岩石には珍しく赤い「佐渡赤玉石」もある。魔除けや縁起石として重宝され、弥生時代には勾玉に加工されていたそうだ。

きっと鉄分の多い岩石なのだろうと思う。(本当のところは知らない)



  話を散歩に戻して、涼亭の入り口を覗いてから、「富士山」と名付けられた小高く造られた山に向かって池の畔を歩いていると、








枯滝の近くで、散歩中の女性が、山より池の中に向かって一所懸命シャッターを切っている。

「暑いですね。池に何かいますか?」と声を掛けると「雨が上がって、暑くなりましたね。池に大きな鼈(スッポン)がいるんです!」と指さす。


 見ると鼻の尖った大きなスッポンが他の亀や鯉に混じって泳いでいる。

 スッポンは、テレビの料理ではよくみるけれど、私は食べたことはない。相当な大きさで、(料理したら何人前になるんだろう?)と、つい食べることに気が回ってしまう。

 他にもカメが沢山いるが、石亀や草亀より、首の所の赤い模様のものが多い。

 これもテレビで見たことのある、祭りの夜店で売っているミドリガメの成長したアカミミガメでなければ良いが、と思いながら、私も写真を数枚撮った。

 


 亀のついでに、先ほど撮った富士山も1枚。
(遠くからのほうが山らしく見える)
 








 
 富士山麓?の大きな燈籠は「春日燈籠」と名付けられている。






 その向こうを右の小径に入ると、石の祠の中に4体の石像が祀られている。

 石板の庚申塔には「いわざる、みざる、きかざる」の3猿が刻まれ、法印慶光供養塔は阿弥陀仏、もう一枚の庚申塔の前には馬頭観音供養塔がある。

 

その帰り道には伊勢御影石の九重塔。

 

 




 岸辺を歩いていると大型の鳥が水中のエサを漁っている。

 
  
 



 アオサギのようだ。その先に進むと、鶴島にも塑像のように羽根を半分広げて佇む仲間のアオサギが。



 「鶴島」にアオサギという取り合わせも面白い。ここに鶴が来ることはないだろうから……。





  

庭園を、ほぼ一周して、入り口近くの大正記念館。ここは有料で集会などに貸し出されている。

記念館の東には枯山水があり、真っ赤なモミジ?が枝を張っている。

この建物の近くにも多重塔があり、

西側の芝生の端の木立の中に、前に書いた佐渡赤玉石がある。

その手前の円筒形の水鉢は大和御影石。そのまた手前の大きな岩は伊豆石。 
 それぞれの石の前に石の名前の立札を立ててあるのでわかりやすい。


 入場してから1時間半。打ち合わせ時刻も近づいて来たので、ランチの場所を探す。
 あちこちにベンチはあるけれど、今朝の雨で濡れている。仕方が無いから、池を半周して花菖蒲と芭蕉の句碑の「自由広場」へ戻る。

 
 大きなあずまやを一人で借り切って、前の広場を眺めながらおにぎりランチ。

 広場の芝生の真中辺りで動くものがいるので目を凝らして見ると、菖蒲園の堀から上がって来たらしい亀が1匹。足を伸ばしたり、首を伸ばしたり縮めたり……。



 山燈籠の近くを歩いていると、先ほど出会った女性が散歩を続けていて、橋の向こうからやって来て「あの石橋の上に大きなスッポンがいるから、気をつけてください」とアドバイス。

 橋を渡ろうとすると、確かにマンモススッポンが、文字通り「甲羅干し」をしている。

 ちょっと怖くなるような大きさで、獰猛な面構えだ。

 こちらがスッポン鍋にするどころか、あの牙に足を噛まれたら放してくれないだろう。





















 散歩とランチを終えて、駅に向かう。









 駅への途中、路地に石柱とパネルが立ててある。

村田春海という江戸時代の、賀茂真淵の門人の国学者で、江戸派の歌人として有名な人の墓だそうだ。

今は静かに路地裏に眠り、世の変遷を眺めている、と思って隣の建物を見ると入り口に「稱名庵」と暖簾が掛かっている。

蕎麦屋さんか和菓子屋さんかと思ったが、後で調べたら路地を挟んで、浄土宗のお寺があり、それが「本誓寺」で、その墓地に村田晴海の墓があるらしい。



 「庭園」の向かい側のオープン公園「清澄公園」と「本誓寺稱名庵」は、また日を改めて来ることにする。





 今日の歩数は13,000



 



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