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門前仲町1
   (深川不動尊 富岡八幡宮など)
 2019.09



 

ふと、ドジョウが食べたくなった。
 昔、昭和20年代、30年代の私の田舎では、ドジョウやタニシは子どもたちの川遊びの獲物であると同時に、貴重なタンパク源でもあった。
 当時、
家庭や学校の給食で食べる肉は鯨肉が中心だった。

小学生の頃だと思うが、兄に連れられたり、友人と誘い合わせて、小川に魚取りに行ったり、田圃のタニシやドジョウを取りに行ったものだった。小川の魚は、最近はテレビでも「掻い堀(かいぼり)」を見せるが、私の子供の頃の取り方は「掻い川」だった。

水の少ない小川の上と下を堰き止め、バケツで水を「掻い出す」。上の堰から水が溢れる前に、間の水を全部掻い出す。水が少なくなると岸の木の下の「やて=魚の隠れ家」から、ゲンゴロウ、タガメ、フナやタナゴ、モツ、ドジョウ、時にはナマズなどが、残った水溜まりに誘われて出てくる。
それを捕まえて、友人と分けて、夕焼けを背に、意気揚々と家路についた。


 
タニシやドジョウは、また別の取り方をした。一年の9月、10月か、もう少し後か。稲刈りの終わった田んぼが舞台になる。

水を落として(流し終わって)生乾きになった田んぼの、溝(田の中で水の流れをよくするための水路)の端から、両手の指を伸ばして泥の中に差し込んで、10センチぐらいずつ泥を掻いてくる。丁度熊手でアサリを取るようなものだ。

掻いた泥の中から、半分眠っていたタニシや、冬眠前のドジョウが「起こされた!」と文句を言いそうな顔でにょろにょろ出てくる。だから「捕まえる」とか「取る」というより「採る」に近い。


そう、あの甘辛い「ドジョウの丸煮」が食べたくなった。開いて骨を外してゴボウの笹掻きと卵とじにした高級な柳川鍋ではなく、最もシンプルで、まさに「泥鰌」という感じの甘辛煮だ。ピエール・トロワグロ、ポール・ボキューズのヌーベルキュイジーヌにつながる「素材の特性を生かした料理」とくれば(というほどのことではないが)いろいろ手の込んだ料理より、素材の味と香りが生きている。ドジョウは丸煮が一番だ。

(余計なことだけど、ひとつ付け加えておくと、)私の中では、普通の魚料理なら、やっぱり刺身(ドジョウは刺身は無理)、塩焼き、煮魚の順になる。ほのかな(川の中で食べた餌の)苔の香りと焼き目の匂いが一体になった鮎の塩焼きは最高だ。



 
ネットで調べると、浅草などには有名な店があるが、門前仲町にもドジョウを食べさせる庶民的な居酒屋が有るらしい。

が、実際に行って見ると、夕刻だけの営業でランチタイムはなし(休業)。

仕方がないので、(ここまできたからには……)と、昔1年間下宿した家を探すことにした。

  さっきの居酒屋から1区画ほど奥に行った路地裏の豆腐屋さんの作業棟にくっ付いた入り口別の小さな1、2階続きの2間を借りていた。朝4時頃から仕込みの物音が聞こえてくる働き者のご夫婦の豆腐屋さんだった。

私のアパートは1階が台所で、2回が居間だった。

夜、勤め先から帰宅してドアを開け、明かりを点けるとサラサラとカニが這うような音がする。最初のうちは分からなかったが、その内、流し台のステンレスのシンクの中でゴキブリの群れが排水口に逃げ込んでいるのを見つけた。
 昼間、留守の間はゴキブリが活躍し、夜は天井裏でネズミが運動会をしていた。

また、祭りの季節(8月15日の深川八幡祭だったか)が近づくと、二階の窓を開けると、目の下の路地で神輿を担ぐ練習を繰り返し賑やかだった。
路地裏の袋小路なので、交通の邪魔をする心配もなく、存分に練習できたことだろう。長閑な時代の、下町の生活だった。

 今も数年に1回ぐらい隅田川沿いにある飲み屋で知人と飲むことがある。
 
前回、春先に飲んだ時は、すぐ先で隅田川に注ぐ大横川の両河岸の夜桜は、ライトアッップ用の提灯の明かりに映えてほろ酔いの目にも素晴らしかった。

さて、昔の下宿のあった地点は見つかったが、まわりの家は全部建て替えられ、路地もきれいになりすぎて、昔の面影は全くなくなっていた。まあ、そのほうがその土地の人が暮らすには良いので、勝手に懐古に浸っているわけにいかない。下宿は小綺麗なアパートになっていた。

再び・・・(此処まで来たからには、深川不動尊と富岡八幡宮に参らないわけには行かない……)。永代通りの商店街を通り(ここも清潔そうな商店街に変わっている)、細い参道を入って、深川不動に参る。
 考えてみると、近くに住んでいる頃には深川不動にも富岡八幡にも一度も来たことがなかった。
  
 まあ、人というのは勝手なもので、と言うか、自分の都合の良いことばかり考えるから、(あそこには何時でもいけるから……)と思っているうちに遠くに転居して、とても行けなくなることがよくある。

現に、この散歩をしている私も、都内で仕事をしている時に(門仲でも浅草でも、行きたい時に行ける)と思っているうちに千葉に転居して、週に1、2回の「都内打ち合わせ」の機会に、見落とした都内の景色を求めながら「健康散歩」をしている。


 門前仲町の商店街の切れ目(地下鉄東西線の東の出口)にある赤い山門(かな?)を潜り、不動尊に向かう。参堂の両側には飲食店が軒を連ね、近所の人や観光の人で賑わっている。






 

 不動尊の参拝を済ませて、すぐ隣の富岡八幡に行く途中、小さな児童公園があり、可愛い歓声が聞こえてくる。



 その道路の向こうに富岡八幡宮がある。ここも江戸初期、寛永年間に創立され、また、天皇の行幸も賜った由緒ある神社だ。


 江戸勧進相撲の発祥の地だということで、江戸時代には本場所が開かれていたそうだ。その後、開催場所は、両国(本所)の回向院へと移っていったとか。





 境内には横綱力士碑があり、力士手形足形碑や巨人力士身長碑などもある。

もうひとつ見るべきものは、伊能忠敬の像だ。




 佐原出身の忠敬は、50才を過ぎてから天文学、測量術を学び、71才まで全国を巡って測量し、日本地図の基を完成させた。その偉業には頭が下がる。私にとっては八幡様より忠敬のほうがお参りの対象になった。(八幡様、すみません!)

以前、家族で旅行した時に香取市佐原に伊能忠敬記念館があり、測量に使った器具なども展示されていた。
 
そう、私は70才過ぎだが、まだこれからでも出来ることがあるかも知れない、という気にさせてくれるからいい。

今日は、ランチを期待したドジョウのある居酒屋が休みだったので、日比谷線の築地で降りて、元築地場外市場の一角で海鮮丼を食べた。

市場が昨年豊洲に移転した(2018年=平成30年10月)ので、昔の雰囲気は無くなったが外国人旅行客の観光スポットのひとつとなっていた。

まあ、家康の頃始まった日本橋室町辺りの魚河岸や神田八辻ヶ原の青果市場が、数百年を経て、関東大震災をきっかけに1935年に築地に移り、今度は豊洲に移ったということだから、これも歴史の流れの中のひとつだということかも知れない。

そう、今度はいつか、豊洲市場へ行ってみよう。

今日の歩数 12,000歩





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